「まさか40代からこんなに人生が変わるなんてね」と平野さん 撮影/齋藤周造

一念発起して渡米、見つけた新たな夢

 45歳にして離婚を決めた。夫にしたら、青天の霹靂(へきれき)だったようだ。それでも妻の希望を受け入れ、しかも、離婚後も生活費を振り込んでくれたという。だが、いつまでもそれに頼るわけにはいかない。

「まずは離婚してすぐ、東京の大学に通う娘のところに転がり込んだんです。でも私、働いたことがないわけですよ。ビラ配りのアルバイトをしていたら、娘に“世間知らずもいいとこ。お母さん、バカね”とピシャリと言われました。確かに、“こんなことをしていても将来には役立たない”と背筋が伸びました。何より、子どもたちの世話にはなりたくない。何か見つけなければと焦っているとき思い出したのが、“アメリカに留学する”というかつての夢でした」

 そこからは猪突猛進。英語の専門学校に通い、猛勉強をして47歳のときにコネチカット州立大学・ファインアート学部に入学した。寮にも入ったのだが、学校の配慮で大学院生用の個室で過ごすことができたのはラッキーだった、と笑う。

「でもね、私、そもそもひとり暮らしも初めてなんですよ。それまで家族がいた40代後半の日本の女性が、たったひとりで勉強漬けになりました。つらいとは思わなかったし、ここで何かを得なければ日本には帰れないと思っていたので必死だった。ただ、何かあったら自分の身は自分で守らないといけない、そのためにはきちんと自己主張しなければいけない、ということも学びました」

 というのも、ある日、同じ寮に暮らす中国の女子留学生が突然、亡くなったのだ。お腹が痛くてキャンパス内の診療所で診てもらったが、病状をうまく説明できなかったのか、たいしたことはないと診断された。ところが、彼女はそのまま寮の自室で瀕死(ひんし)となり、翌日、病院に運ばれたものの命を落とした。この一件は、平野さんの「ひとりきりの厳しい現実を生きていく」覚悟へとつながっていった。そして、孤独とも正面から向き合う決意を固めたのだ。

 留学中、彼女はずっと、帰国したらどうやって食べていこうかと考えていたという。

「バイリンガルの人とは差がありすぎるから、英語を使って仕事をするのは無理だと思いました。“卒業できても、何をしたらいいんだろう”と、親しくなった英文学の教授に話したら、“日本でアメリカンケーキはまだ知られていないでしょ? ニューイングランド地方の伝統ケーキを習ったら?”って。それだ、とピンときたんです。私は特にケーキ作りが好きでも得意でもなかったのに……」

 だが、そこからみっちりとケーキ修業を始め、納得いくまで突き詰めるのが平野さんという人物の生き方だ。3人の先生に三者三様のレッスンを受け、特に、3番目に出会ったシャロル・ジーン先生からは基礎を徹底的に学んだ。そして彼女はディプロマ(修了証書)を授与されて帰国した。

3人目の師匠・シャロル先生(写真右)とはプライベートな話もする親密な間柄となった

「漠然と、ニューイングランド地方のアメリカンケーキ作りの教室を開こうと思ったんです。場所は京都にある実家の、母のキッチン。でも、突然、住宅街で教室をやっても人は来ませんよね(笑)」

 たまたま家の前を通りかかった京都新聞の記者が取材して、紙面で紹介してくれた。けっこう大きな記事だったため、あっという間に生徒が200人近くになった。

「食べた人たちがみんなおいしいと言ってくれる。ある日、生徒さんに“ケーキ屋さん、開かはったら?”と言われて、“そうだ、教室兼お店を持とう”と決心しました」

 数年前、ワンマンな夫に仕えるのも私の人生だと思っていた平野さんが、数年で「自分の意志だけで人生を切り開いていく女性」へと変身した。それは実は変身ではなく、彼女の中に眠っていた何かが目覚めただけなのかもしれない。

(取材・文/亀山早苗)

【※平野さんが自身のお店を出してからの奮闘劇をつづった後編は、1/22(土)の12時に公開予定です】

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