「アートとは何ぞや」を本質から問うた傑作「泉」

 もちろん、これまでの芸術作品は、論理的な理由があるものがほとんどです。感動させたいからキレイな風景画を描くし、発注者の家に飾るために似せた肖像画を描く。でも、それらはダダイストからしたら”ガラクタ”なんですね。だからニューヨークのダダイスト・マルセル・デュシャンは「反芸術」を掲げるんです。

 そんな彼は1917年に自身が展示委員をしていたニューヨークの「アンデパンダン展」で大スキャンダルを起こします。アンデパンダン展とは「出品料さえ払えば誰でも無審査で出展していいよー」という趣旨の展示会のこと。つまり、基本はどんな作品でも受け入れるんですね。

 そこに『Fountain(泉)』というタイトルで、TOTO製品並みにどこにでもある男性用小便器を出品します。署名には自身の名前ではなく「R.Mutt」と書かれていました。

マルセル・デュシャン『Fountain(泉)』

 これは西洋美術史上で最高レベルの「事件」で、事実、2004年にイギリスでおこなわれた「500人の芸術専門家に聞いた『もっとも影響力のあるアート作品ランキング』」では1位を獲得しました。この作品は決して「アイディア浮かばなかったから、もう奇をてらっちゃおっかな~」ではないんです。ちゃんとダダイズムの考えにのっとっていました。

「便器」はレディメイド(均一的な形で大量生産された製品)で、「用を足す」ために作られたものですよね。でも「きちんと台座に載せて展示会に出す」ことで、便器は本来の役目を失って「完全に意味のないもの」となります。これは「論理的思考をぶっ壊す」という、ダダイズムの価値観にぴったりでした。

 さらに、この便器は「芸術の定義」を根っこから覆した意味でも偉大なんです。「芸術」って、なかなか明確に定義されないんですけど、なんとなくみんな「芸術家の思想や哲学が反映された、五感を通して魅力を感じるハンドメイドの作品」だと思っていました。

 その点、『泉』は真逆。大量生産された小便器で視覚的にちょっと不快だし、デュシャンの署名もなく、作者の思考は完全に排除しています。つまり「完全に何の変哲もないただの便器」なんですよね。

 その結果『泉』は「何でもOK」のはずのニューヨーク・アンデパンダン展から出品を許されませんでした。「ちょっとちょっと。汚いんですけど!」とか「いやいや作品じゃなくて、これパクリじゃん」などと怒られたわけですが、確かに、その気持ちもわかります。

 ただ、デュシャンは「そもそも、なんで芸術って1点もので、作者性があって、魅力的なものじゃなきゃいけないんすか?」と、軽々と宣言してのけました。これ、私はハッとしました。もう「ハッ」って言いましたもん。ダダイズムの「論理的思考の排除」があったからこそ、常識を疑うことができたんだと思います。

 ここから「芸術の概念」は広がり、自由になっていきます。ポップアートや現代アートが出てきて、今でも「芸術の定義とは?」と解釈され続けている。こうした背景から『泉』は、アート史上MAXレベルで影響力のある便器として知られているのです。