シュルレアリスムを「許すこと」と解釈してみる

 ダダイズム同様、シュルレアリスムの作品はもう全部、はちゃめちゃです。それは、理性のフィルターを通していないし、論理的なことを否定しているから。「1+1は?」と聞かれて「もみあげ」と答えてもおかしくはない。そりゃもうわけがわかりませんが、すべてを「受け入れる」というのがシュルレアリスムのミソです

 前述したダリの得意な表現に「柔らかい時計」があります。しかし「こんなにぐにゃぐにゃした時計、時間がわかんねぇよ」と言う人は誰もいません。

サルバドール・ダリ『時計のプロフィール』(1984年)

 作品に対して「いや、ここの色合いはもっとこうしたほうが……」とか「パーツがズレてる……」とか、そういう問答をすること自体が無意味なんです。なぜなら、シュルレアリストの思想に「魅力的に見せよう」という気なんてなく、ただ自分の本質(とだけ向き合っている)からです。

 私はシュルレアリスムについて「どんなに(世間的に)おかしなことも、ぜんぶ許して認めてあげること」と、ちょっと拡大して解釈しています。すると鑑賞者自体も「自由」になれるんですよね。

 例えば、「この色のほうがいい」や「この線の引き方が甘い」といった見方をする背景には、「鑑賞者自身の人生」が反映されていると思うんです。「生きてきたなかで覚えた自分の常識」があるからこそ、何かを否定する。これはある意味で「呪われている」といってもいいかもしれません。

 私は、シュルレアリスムの姿勢ですべてを受け入れることで、呪いがリセットされる感覚があるんですね。あくまで個人的な解釈ですが、この「優しい世界」がシュルレアリスムの魅力だと思っています。

アートが「生き方」まで拡大した20世紀初頭

 ダダイズムとシュルレアリスムはもはや技法や画法という領域ではない。哲学とか生き方とか、そういう話なんです。この時代からアートは技法だけでなく「人の生き方」まで昇華したのだと思います。

 個人的には「今まさに、ダダイズムやシュルレアリスム的な考えが人を救うんじゃないか」と考えています。数年前からコンプライアンスが厳しくなり、芸能人は今まで以上に世間のイメージを気にするようになりました。一般人も毎日のようにSNSから刺激を受けて「周りからどう見られているか」という、パブリックイメージを気にしてしまうことがあるかもしれません。

 他人を意識して「自分のイメージに反したくない」と思うと、自由がどんどん制限されていってしまいます。すると、やっぱり疲れてしまうことがあるかもしれません。その根底にはすべて「理性」が存在しているんですね。人間に備わっている「理性」はとても便利ですが、たまーにハンパじゃなくめんどくさい存在になります。「あれをすると角が立つし、これをすると嫌われるかもしれないし……」と、がんじがらめになることもあるでしょう。

 そこで、シュルレアリスムの精神が役に立つのではないか、と。いったん、いろいろ考えるのをやめて、自分の感覚で動いてみるのも大事です。とはいえ、常に理性を失うと「シンプルにヤバい奴」になります。だから、あくまで「たまには」理性を取り払って、周りの目を気にせずに生きてみるのもいいのではないでしょうか。

(文/ジュウ・ショ)