終戦後、一気に元気になる漫画業界

 1945年8月、戦争もやっと終わり、平和が訪れます。そこで人々が求めたのは、もちろん第一にごはん。そりゃそうです。ただ、同じくらい「読み物」を求めたというから、日本人の本好きは相当なものですね。

 そこから「出版物であれば何でも売れる」といわれるほど、出版業界は一気に元気になります。戦時下は203社だった出版社は、1948年には4581社まで増えて、あらゆる雑誌が急増するのです。

 漫画も同じで1946、47年にたくさんの雑誌が創刊されます。なかでも、戦後の漫画業界の発展に貢献した雑誌として紹介したいのが、漫画・小説なんかを載せていた『漫画少年』です。『漫画少年』では「読者からの作品投稿コーナー」を設けました。そして、入選したら掲載するという、今ではどの漫画誌もやっている手法をいち早く取り入れました。

 その投稿欄に実際に応募したメンツがとにかくすごい。以下のように、昭和を代表するクリエイターが勢ぞろいなんです。

石ノ森章太郎/藤子不二雄/赤塚不二夫/松本零士/つげ義春/篠山紀信/眉村卓/筒井康隆/横尾忠則/和田誠

 平成生まれの私ですら興奮します。なんというか、悟空と炭治郎とキューティーハニーとキン肉マンとエレン・イェーガーが、実は同じジムで筋トレしていた、みたいな。「なにそのジム、ヤバいじゃん」ってなりますよね。それが『漫画少年』の読者投稿コーナーだったんです。

漫画の神様・手塚治虫の登場

 出版業界がにぎわい始めた1946年、4コマ漫画『マアチャンの日記帳』でデビューしたのが神様・手塚治虫です。ここが漫画の歴史においての超転換期で、よく「手塚以前、手塚以後」とも形容されます。

 彼は現在の大阪府・豊中市で生まれ、5歳で兵庫県・宝塚市に引っ越します。幼いころから、あらゆるコンテンツに囲まれた時間を過ごしていたそう。家には漫画や絵本があり、自宅の映写機でチャップリンやディズニーアニメを見ていました。1人で映画館に行ってアニメ作品を見たり、母に連れられて宝塚歌劇を観たりして過ごしたそうです。

 そんな彼は18歳で最初期の傑作『新宝島』(当時は『新寶島』)を書きおろします。この作品は当時の小学生にとんでもない衝撃を与えました。藤子不二雄、赤塚不二夫、松本零士などのそうそうたる漫画家が『新宝島』を読んで漫画家を志したくらいで、藤子不二雄は「(冒頭)に2ページ、車が走っているシーンがあるだけで、なんでこんなに興奮させられるんだろう」と当時を振り返っています。

 実は、『新宝島』は原作者の酒井七馬の手が大幅に加えられたため、手塚自身は納得がいかない部分もあったようですが、それでも画期的な世界観は、世間の子どもたちを魅了したんですね。

 じゃあ、いったい何がめちゃめちゃすごかったのか。手塚治虫は、それまでの漫画の何をアップデートしたのか。この点については論者によって、結構ばらつきがあります。ここでは、あくまで私が感じる「手塚の漫画革命」について紹介していきましょう。