『新宝島』は200ページほどの単行本として出版されました。まず、これが当時においては、とんでもない革命です。なんてったって、それまでは数ページの漫画しかなかったんですから。
戦前に『のらくろ』と並ぶほど人気だった漫画『冒険ダン吉』の作者・島田啓三は、手塚から『新宝島』を渡されて「いやいや、この漫画は8ページで済むぞ。こんな大長編は邪道で、これが流行(はや)りだしたら、私の出る幕はなくなる」と酷評したそうです。
今では長編の単行本はスタンダードですが、当時は16ページ描くだけで「長編」といわれていました。そんななか、12倍以上のページ量の漫画を出したわけです。ハンパないですよコレは。
漫画のボリュームがここまで増えると何ができるのか。「ひとつひとつのシーンを映画のフィルムのように細かく描ける」んです。とはいえ「手塚治虫が最初に映画の表現を漫画に取り入れた」というわけではなく、それまでの漫画や紙芝居の時代から、映画的なスピード感や躍動感はありました。
ただ長編にすることで、より表現に余裕が出る。すると、より細かく「時間の進み方」とか「見せ方」を映像に近づけられる。ここに手塚治虫の発明があるんだと思います。
例えば、新装版『新宝島』は主人公のピートくんが、途中で犬をひきそうになりながら船着き場まで車を走らせるシーンから始まります。そのシーンでなんと8ページも使うんですね。
コマごとに寄ったり引いたり、一人称になったりと、構図がころころ移り変わる。カメラアングルや、登場人物の動き方、コマの使い方などの随所に読者をひきつける仕掛けを施しています。これはページ数に余裕があるのもそうですが、手塚治虫が積極的に映画表現を漫画に取り入れていたのも理由の1つでしょう。当時の漫画としては、ものすごく斬新でした。
そして、先述した通り、彼は母に連れられて宝塚歌劇団をしばしば見ていました。宝塚からも影響を受けていて、例えば彼の人気作品『リボンの騎士』の主人公・サファイヤは、宝塚の男役からヒントを得ています。ちなみに『リボンの騎士』は日本のストーリー少女漫画の第1号であり、最初に「瞳に星を描く表現」をした作品でもあります。
手塚は大学時代に演劇部に入って役者をするほど演劇好きです。「悲劇的な幕切れの漫画を描いたのは私が初めてだと思う」と手塚自身が自負しています。それまでの漫画はざっくり言うと「面白おかしく読めるもの」だったんですね。そこにアンハッピーエンドの漫画を取り入れることで、「ストーリーの型」をより広げたというのも大きな変化でした。
ディズニーを参考にした「球体」のデザインとコミカルな動き
また、手塚治虫は「漫画のキャラクターデザインのフォーマット」を決めていました。
その背景にあったのが「ディズニーアニメ」です。手塚治虫はディズニーキャラクターのデザインを「球体の集合」としてとらえたんですね。「アニメーションを滑らかに見せるとともに、立体感を出すために球を基調にしているんだ」ということに気づきます。
手塚は「オタマジャクシは球体に尻尾がついただけのシンプルさが可愛い。一方で、ミミズは線状であるだけであり球体がないから可愛くない」といいます。ディズニーキャラクターを観察するなかで「球体にこそ『可愛いデザイン』の秘密が隠されていること」に気づくんですね。
そのため手塚は、ディズニーキャラクターを参考に漫画キャラクターを作りました。例えば『鉄腕アトム』の2本のツノはミッキーマウスの耳からきていますし、指は4本しか描かれていません。また、お茶の水博士は『白雪姫』のこびと・グランピーがモデルとされています。
ただ、手塚漫画はキャラクターデザインだけではなく、「キャラの動きや表情」も重要な要素です。それまでのキャラクターが無表情で棒立ちだったというわけではないですが、手塚漫画は、特にどのコマもキャラクターの表情とアクションが派手です。
例えば『ジャングル大帝』のレオは、いつも四足歩行ですが、喜怒哀楽を表現するときは直立するときがあります。また、車が急いで走るとき汗をかいたりします。これも表現技法の1つですよね。
手塚の描くキャラクターの躍動感は、それまでの漫画とはまったくレベルが違った。読者が「なぜか数コマを見るだけでワクワクする」と感じる理由の1つは、ここにあるといっていいでしょう。
手塚治虫の「新しいものは何でも取り入れる精神」で漫画が進化
このほか手塚治虫が当時の漫画にもたらした功績は、本当に数えきれません。専門家によって解釈の違いはあれど、ストーリー、絵の描き方、展開、見せ方など、漫画を大幅にアップデートしたのは、間違いなく手塚でした。
その背景には、手塚が「とにかく常に新しいものを作ろう」と考えていたことがあります。彼は映画やアニメ、演劇、小説、といったほかの分野のコンテンツでも「面白い」と思った表現は何でも漫画に取り入れていくんですね。
先述したように映画的手法、演劇的見せ方は手塚以前にもありました。しかし映像、アニメ、演劇などの技法が見事に組み合わさった結果、「まったく新しい描き方の漫画」が誕生した。そして、そのスタイルは令和の漫画にも根底に残っているわけです。
まさに「手塚以前、手塚以後」といわれるほど、ここから漫画の表現技法はフォーマットは進化をしていきます。
また、もう1つ、手塚治虫がやった偉業として「知識やテクニックを後進に伝えたこと」が挙げられます。
その舞台となるのが、手塚が1953~54年に住んでいた東京都・豊島区の「トキワ荘」です。そこには藤子不二雄両氏、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、寺田ヒロオ、水野英子といった手塚治虫に憧れを持つマンガ家が入居し、切磋琢磨(せっさたくま)しながら1960年代のマンガブームを牽引(けんいん)することになります。
次回はこの「トキワ荘メンバー」を中心に、1960年代の漫画の歴史について見ていきましょう。
(文/ジュウ・ショ)
【参考文献】
◎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』 (講談社刊)
◎『日本マンガ全史:「鳥獣戯画」から「鬼滅の刃」まで』(平凡社刊)
◎『日本の漫画本300年:「鳥羽絵」本からコミック本まで』(ミネルヴァ書房刊)
◎『「コミックス」のメディア史 モノとしての戦後マンガとその行方』(青弓社刊)