「自分の意志で産まない」は、なぜ言いにくいのか
ある国では、「周囲に勧められて出産してはみたけれど、後悔している」という人たちの声を集めた論文も出版されているらしい。
たとえ需要があっても、その本が翻訳され日本で出版されることは、現段階では非常に難しいように思う。
私のように子どもを持たない選択をしている人も、「少子高齢化社会なのに、なぜ?」と誰かに責められれば、どう返していいかわからない。
すでに子どものいる人なら、より大きな困難を伴うだろう。
母親の中の一部の人が、心の奥深くにある「子どもを持たないほうがよかった」という苦しみを吐露すれば「子どもがかわいそう」と責められる。
それは、自分の意志で子どもを持たない選択をし、実際に産んでいない私たちより、さらに周囲に言いづらく、苦しいことなのではないだろうか。
中には、産まない選択をしたかったが、それを周囲に言えず、期待に応えるかたちで子どもを持った人もいるかもしれない。
妹の子どもを可愛がる気持ちと「産みたい」は違う
私は3人姉妹で、今春、下の妹が出産する予定だ。
百貨店に行ってはベビーグッズを見たり、妹が大変なときに何かできるように、出産予定日のだいぶ前から、妹が住み実家もある大阪に帰る計画を立てたりしている。
万一、新型コロナに感染していたら一大事なので、「この日からこの日までは自宅にこもって、PCR検査をして……」とスケジュールを考えていたら、1か月以上も大阪にいることになってしまった。
甥(おい)や姪(めい)が生まれるのを楽しみにしている自分に気づく。
だがそれは、自分が子どもを持ちたいという気持ちとは、まったく別ものだ。
甥や姪のことを、私は可愛がるだろう。
懐いてもらうための計画すら立てている。
でも、「そんなに自分の妹の子どもが可愛いなら、自分の子どもはもっと可愛く思えるよ。産んでみなよ」という考え方には同調できない。
産んだあと可愛いと思えるかもしれないし、育てながら幸せを感じることもあるかもしれない。
でも、そんな「もしかしたら」という仮定をもとに子どもを産むのは、自分本位な考え方だと思えるからだ。
すべての選択を尊重するということ
産む選択をする人、産まない選択をする人、そして、産む選択をしているが授かるのが難しく、不妊治療をしている人。
すべての人がそれぞれを認め合い、考え方を尊重することができれば、私たちもきっと孤独感や罪悪感を持たずに言えるようになる。
「私は、自分の意志で子どもを産まない選択をしている」
もっと、私と同じようにこう考えている人と、思いを共有する機会がほしい。
そして、なぜ「自分の意志で産まない」ことが言いにくいのか、一緒に考えたい。
最近はそんなことを思っている。
(文/若林理央)