1986年、39歳でのデビューから現在まで「ひとりの生き方」をテーマに、多くの著書を発表してきたノンフィクション作家の松原惇子さん。松原さんが愛してやまない猫たちとの思い出と、猫から学んだあれこれをつづる連載エッセイです。
第4回→病弱だった愛猫・グレちゃんが1歳に。同時に還暦を迎えたマミーが初めて感じた「後ろ向きな自分」
第5回
人生には3つの坂があると言われている。上り坂、下り坂、そしてまさかの坂だ。グレと一生幸せに暮らすはずだった目黒の自宅マンションが漏水にみまわれたのだ。
覚えているだろうか。2012年、東京をゲリラ豪雨が襲ったときのことを。あの豪雨で、一生住むはずだった部屋の中が、まるでゴースト映画さながらの恐ろしい光景に変わっていったのだ。玄関は水浸し。原因を探そうと天井、壁を見渡すと、壁紙はしなり、コンクリートの柱も浸食されているではないか。
「キャ~~。こわい!! 何が起きているの!!」雨が降っても降らなくても、壁のしみは廊下からリビングのほうまで広がる勢いだ。最悪だったのは、管理会社も理事会も真剣に取り合ってくれなかったことだ。日本は男社会なのだ。若い女性には親切だが、老いた女性には冷たい。日本社会では自分が弱者なのだと知る。このときほど、夫がいればと思ったことはなかった。ひとりで最後まで貫くつもりだったのに、夫がいたらなんて思う自分が情けない。女性がひとりで死ぬまで生きるのは、そう簡単なことではない。
マンションを売り払い、実家に避難することにしたが
一旦いやになると我慢していられない性格なので、周囲が反対するのを振り切って、二束三文でマンションを業者に売り、ひとまず実家の2階に避難することにした。しかし、問題はグレだ。
「猫は、犬と違い、人ではなく家につく。猫にとり移動させるのが一番負担になる」と猫博士に言われた言葉が頭をよぎったが実行した。
緊急事態を察知したのか、グレは天袋の隅でじっとしている。胸が張り裂けそうだったが必死でつかまえてカゴに入れた。先代のメッちゃんは、動物病院に連れていくだけで、この世の終わりだと思うほど泣き叫んだが、グレはまったく声を発しない。
1時間半ほどのドライブで埼玉の実家に到着する。グレは静かだ。まさかの坂でショックなはずだが、平然としている。つくづく猫は立派だなあと思う。不満を言わない。猫は、何が起きても受け止めて生きているのだ。一方、わたしは困難に立ち向かうのを避けて、逃げ出してきた。