「ありがとうございました」と、ひと言だけ残して去った
小学生の私は、ある確信を得た。
「きっと先生やクラスのみんなは正しいことをしている。ぜんぶ私が悪いのだ」と。
次の日からもクラスメイトの態度は一緒で、いじめてくる男子はこれまでと同じく、たたいたり、「なんで話さへんの」と怒鳴ったりしてきたし、女子たちが遠くでくすくす笑いながら「やめえや」と言うのも、変わらなかった。
先生は、昨日のことなんて忘れたように、いつもどおり授業をしていて、私が泣いたときだけ男子を叱った。
6年生の1学期の終わり、家族の引っ越しで転校することになった。もうひとり転校する子と一緒に、同学年の児童みんなが集まる6年生の会で、あいさつをするように言われた。話さないのではなくて話せないのに、あいさつなんてできるのだろうか。
集会では、もうひとりの子が、先生が満足するように泣いたり、「どこへ行っても、みんなのこと忘れません」と、感動するようなことを言ったりした。瞬時に先生がほしい言葉をプレゼントできる人は、たとえ子どもであっても頭がいいのだと思う。大人に好まれる言葉を選りすぐって残すのは、中学生になっても使える立派なスキルだ。
私の番になり、仕方なく立ち上がって周囲を見る。当時、大阪でいちばん児童が多い学校だったので、ひとつの学年だけでも少子化をまったく感じさせない人数だった。「ありがとうございました」と小さな声で言った。
同い年の子たちと5人の先生は、私の次の言葉を待っていたが、もう何も言葉を発する気になれなかった。
「言えない」じゃなくて「言わない」。
そのときの私は、「話せなかった」じゃなくて「話さなかった」。
でも、転校先の学校では話せるようになるかもしれない、と少しだけ胸に希望が宿った。
分かち合える人を増やすには? 答えの出ない“克服”のその先に
私の場面緘黙症が完全に消えたのは、中学校に入学したころだと思う。はっきりしていないが、会話のキャッチボールがとても難しかったことを覚えているので、そのころには克服していたのだろう。
克服が何を指すのかは、いまだにわからない。
中学生になった私は、会話に慣れていなくて、相手が答えるのを待たずに話したり、空気の読めないことを言ったりした。そんなことをしていたら、当然、嫌われる。中高一貫校に通っていた私は中学1年生の2学期から不登校になり、1年半、学校に行かなかった。3年生になってようやく通学できるようになり、一貫校だったおかげで高校に進めたが、出席日数は高校卒業までずっと、進級できるかどうかギリギリのラインだった。
いま考えると、小学生時代の場面緘黙症を、いつでもどこでも話せるようになった中高生以降も引きずり続けていたのだ。不登校に対しても理解のない時代であったが、こらえて大学は離れた場所にあるところを選び、なんとか10代を生き抜いた。
小学生だったあの日、先生は私のつらさを理解してもらえるように、苦肉の策でクラスメイトに作文をさらしたのだろう。
だが、それ以外に方法はなかったのだろうか。
理解してもらえる人、分かち合える人を増やす。それは、どうすればできるのか。
すぐに答えが出ないかもしれないが、私は考えている。
できるなら、記事を読んでくれているみなさんといっしょに、この問いの答えを考えていきたい。
(文/若林理央)