日替わりメニューのように「猫を飼う」「飼わない」の繰り返し
考えてみたら、自分もいつのまにか70代になり、人のことだと思っていた高齢者に自分がなっている。70代といえば、いつ死んでもおかしくないお年頃だ。わたしが死んだとしても誰も驚くまい。そんな年齢なのだから、次の猫を飼うかどうかは迷うところだ。もう、十分に猫との暮らしは楽しんだではないか。「あなたが先に死んだら猫はどうするの?」という天の声が聞こえてくる。そして翌日には「老いてこそ猫との暮らしが必要なのでは? 猫のことより、自分の人生じゃないの」と。
毎日、日替わりメニューのように心が動く。そして日替わりメニューのように同じメニューが定期的にわたしを襲う。何をしていても、してなくても、「猫を飼う」「飼わない」の繰り返し。ネットで保護猫を見たり、ペットショップでは買わないと決めているにもかかわらず、うろついたり。グレちゃん似のアメリカンショートヘアの子猫をじっとみていると、店員さんから「抱いてみますか」と促され抱いてみる。ああ、なんて懐かしい感触なのだろうか。連れて帰ろうかと迷ったがやめた。
そうだ、グレちゃんをもらった保護猫団体が今でも駅前で活動をしているか見に行こう。期待せずに、14年前にグレと出会ったその場所に行くと、やっているではないか。すごい! ずっと活動を続けていることに頭が下がる。次の子をもらうとしたらここしかない。
14年前に、グレを譲渡するために自宅まで来た代表の方は、うれしいことにグレのことを覚えていた。「目黒のお宅にお邪魔しましたよね。本のお仕事をしている方よね。あの子は美しい子だったからよく覚えていますよ」
グレが亡くなり悲しみにくれていることなど話す。しかし、その日のケージの中の猫で、気持ちがひかれる子はいなかった。代表の方に、また来ます、と言い残すと、胸がいっぱいのまま車のハンドルを握った。14年前の出会いが昨日のことのようによみがえる。涙が滝のようにあふれ、前を走る車が涙で見えない。わたしは、グレが亡くなってから初めて、声をあげて泣いた。
*第15回に続きます。