看板から消えた、大沼さんの詩
筆者はここまで、大沼さんが新しい看板を「つくった」と書いてきた。これは、あまり正確ではない。実際に看板を立てたのは'08年、アパートを建てた年だ。そのときは純粋に、アパートの宣伝のための看板だった。
原発事故の3年後、大沼さんはこの看板の表面の一部を貼り替えている。だから今回は「2回目の貼り替え」ということになる。
1回目の貼り替えでも、大沼さんは原子力広報看板の写真を使った。ただし、その写真には、大沼さんの明確なメッセージが示されていた。大沼さんが原子力広報看板の前に立ち、手製のプラカードを掲げて、〈明るい未来〉の〈明るい〉の字を〈破滅〉に置き換えている。自作の詩も記されていた。
かつて町は原発と共に
「明るい」未来を信じた
少年の頃の僕へ
その未来は「明るい」を「破滅」に
ああ、原発事故さえ無ければ
時と共に朽ちて行くこの町
時代に捨てられていくようだ
震災前の記憶 双葉に来ると蘇る 懐かしい
いつか子供と見上げる双葉の青空よ
その空は明るい青空に
震災3年 大沼勇治
今回なぜ、これらのメッセージをなくしたのか。
「事故から3年後の時点では、誰かに伝えたいというよりも、自分の中の気持ちを吐き出したいという気持ちが強かったんです。今は、少し違います。住民の帰還がはじまり、この場所を普段から人が通るようになりますから。私の気持ちばかり押しつけてしまっても、気持ちが『ひとり歩き』してしまいます。この看板が意味するものは、みなさんに考えてもらえればいいと思っています」
大沼さんの中には、「双葉のありのままの姿を見てほしい」という気持ちが芽ばえてきている。看板の写真を指し示しながら、大沼さんは話す。
「写真のここにあるタクシー会社もなくなりました。こっちのお店も、もうないです。私が育った町の原風景が変わろうとしています。原発事故が起こるまでの私の人生がつまった風景です。それを残したい、みんなに見てほしい、という思いがあります」
大沼さんは事故以来100回以上、双葉町を訪れて、町が変わっていく姿を撮影している。今春にアパートのまわりの除染を行った際は、作業員が除染する姿を映像に残していた。そうするのは、「生まれ育った故郷が変わっていく姿を記録にとどめておきたい」という気持ちがあるからだ。川で釣りをした話。家の前の空き地でメンコして遊んだ話……。子どものころの話をするとき、その大きな目はひときわ輝く。
今の大沼さんを「ゴリゴリの反原発派」だと思ったら間違いだ。もちろん、その信念が変わることはないだろうが、彼を衝き動かしているのは、別のものではないだろうか。それは彼の言葉を借りれば、「ふるさと愛」である。