チョビのことをよろしく

 それから1年半が過ぎ、いろいろと落ち着きかけた頃、僕は栃木県の黒磯で友人のお店の立ち上げを手伝っていた。ある日、母から電話があり「私ね……入院しないといけないのよ、これから……そっちへ……チョビを連れて行くから預かって……くれない?」

 頭をガーンとやられたような衝撃に見舞われた。

 しかも息がハアハアしていた。

 わけがわからず(いやわかっているけど認めたくなかった)、彼女の好きなコーヒー豆とパンを買い、実家へ戻ると、胸水が溜まっていて呼吸が苦しく、結果は出ていないけれど、癌の再発はほぼ確実とのこと。

 翌朝、コーヒーを淹れてパンを焼いて食卓に出すと「ごめん、今コーヒーもパンもやめていて……」そう言って、スープを少しだけ飲んで席を立った。

 また頭をガーンとやられた気がしてしまった。前回は、手術の前でもコーヒーを飲んでいた。今回も手術をすれば、また回復すると僕は思い込んでいたから、コーヒーとパンの一件は、事態の深刻さを物語っていた。

 病院へ行くと、医師が慎重に言葉を選んで経過と状況を説明してくれた。

 説明を聞けば、そりゃ癌の再発ですねということなのだけれど、医師は断定せずに再発の可能性が高いとだけ繰り返した。

 診察室を出ると、母は車椅子でレントゲンを撮りに行き、待合室の椅子に座ると、すぐに診察室の扉が開いて、僕だけ招き入れられた。

「お母様の現在の症状はお分かりでしょうが、癌の再発です。脳、肝臓、リンパ、随所に転移が見られます。脳の症状か肝臓の症状、どちらが先に出るか分かりませんが、恐らく余命半年、いや3か月くらいかもしれません」

 そう言われ、手術や抗がん剤治療も、胸水が溜まっている状態では難しく、胸水を引けば呼吸は楽になるけれど、状況が悪化する可能性もある、抗がん剤も適合性は芳しくなく、術がない。本人にどう伝えるべきかを息子さんと相談したいということを言われた。病院へ向かう車中での会話、本人はもう死を意識している様子だった。私を病院へ送ったら、チョビのことをよろしく、そしていつも通りの生活に戻ってねと言われた。

 そんなことはできるはずもない、僕は全てを手放す覚悟をした。

 今は母とチョビ、そのことだけを考えようと。

 いつでも潔く全てを放り投げられるのは、僕の長所であり、最大の短所だと思う。

要一郎さんのトレードマークの帽子 撮影/伊藤和幸