葉山は少し遠いかな

 母には、体力が回復してきたら抗がん剤治療をすると伝え、1か月くらい入院生活をした。

 今回は、食欲がないので差し入れも難しい。美味しそうと思っても、身体が受け付けず、戻してしまう。健康な時には分からない、辰巳芳子先生の命のスープの意味が理解できた。何度かショットグラス1杯分くらい、栄養価をぎゅっと抽出したスープを飲ませた。

 しかし、入院していてもやることがないと確信した母は、胸水を引いて欲しいと先生に迫った。その意志は固かった。寿命が縮まっても構わない、最後に苦しいのは絶対に嫌だと。

 先生も理解して少しずつ引いてくれた。それと引き換えに凛として美しかった母に黄疸の症状が現れてしまった。顔を洗いながら、いつもと変わらないように見せているけれど、本当にショックだろうなあと思った。

 僕と母の間で、こういう時に言葉は要らない、お互いの気持ちはテレパシーのように感じ取れる。呼吸は楽になり苦しくなくなった、母はやることがないならもう退院させて欲しいと再び先生に迫った。困ったなあという顔をしながら、酸素吸入器を自宅にセットする、様子がおかしい時にはすぐ救急車を呼ぶことなど、僕にいろいろと説明して、了承してくれた。

 調子がよい時には、出かけることもできた。

 病室でじっとしているよりも、春に向かう穏やかな日差しの中をドライブしたほうがいいに決まっている。しかし、日に日に病が進行している感じはあって、一つ一つ何かを手放していく、そんな感じがした。

 もう出かけるのは最後かなという調子のよい日、慣れ親しんだ葉山の海を見せたい、見たいと車で出かけたけれど、道が渋滞していた。

 母は力なく「葉山は少し遠いかな」と言った。

 甘味が食べたいとの希望で、東京ミッドタウンの『虎屋菓寮』で、餡蜜を食べた。母は二口くらい食べて終わりにした。店員さんの接客に思いやりがあり丁寧だった。

 母は「外苑西通りを通って、天現寺から首都高に乗って帰ろう」と言った。何も喋らずにぼんやり外を眺めていた。

 ある日、買い物に出かけていると、母からのLINEで意味をなさない文字の羅列が送られてきた。心配になり電話をすると「間違えて送っちゃった」そう言った。恐らく目が見えにくくなってきたのだと思った。

 帰宅すると母は、ソファーでぼんやりテレビを見るともなく見ていた。エアコンもリモコンではなくて、本体の小さな電源の光を見ていた。全く見えないわけではない、焦点が合わないのかなあ、状況を察し「ちょっと暑いかな?」そう言いながら、リモンコンを代わりに操作した。

 母はそれでも、自分の力でトイレへ行った。きっと、事前に右に何歩、左に何歩、そうやって心算をしていたのだと思う。バタンと大きな音がしたりしていたけれど、彼女は何事もなかったようにまたベッドへ寝ていた。弱音も一切口にしなかったし、嘆きもなかった、恐ろしい精神力だなあと思った。

《僕が最も影響を受けたのは母である。》 要一郎さんのインスタグラム(YOICHIRO_ASO)より