1万人に1人が発症する難病「ベーチェット病」を乗り越え、その後甲子園に出場し、幼いころからの“プロ野球選手になる”という夢をかなえた柴田章吾さん。
選手人生を終えた後、コンサルティングファームのアクセンチュア株式会社においてITコンサルタントとしてセカンドキャリアをスタートし、2018年に起業家となりました。
セカンドキャリアでは、アスリート時代に得た経験や強み、その後培ったコンサルタントスキルや人脈ネットワークをどのように生かし、自分に合った職業を見つけていったのか、詳しく伺いました。
(アスリートのセカンドキャリアの現実や、サッカー選手を志し、現在はITエンジニアへと転身された吉田開さんのお話は、前編で詳しく紹介しています→記事:アスリートが向き合うセカンドキャリアの現在地──引退後の転身支援に特化する人材会社が、本気でかなえたい未来とは)
突然発症した難病と、それを乗り越え続けた学生時代
柴田章吾さんが、難病のベーチェット病を発症したのは15歳のとき。小学6年生でボーイズリーグの全国制覇を経験し、名の知れた投手になっていた柴田さんですが、医師から「野球をやめるように」と、宣告されてしまいます……。
──ベーチェット病は突然発症したのでしょうか?
「中学3年生の4月、突然40度の高熱と腹痛に見舞われました。当時は、どういう病気なのか分かっておらず、風邪と同じくらいに考えていました。しかし担当の医師からは、1万人に1人が発症する難病で、治らない病気であること、(先生の知る限り)スポーツを続けられた人がいないことを告げられました。そして最後に“野球をやめてください”と言われたとき、初めて深刻な病気なんだと知りました」
──それでも野球を辞めなかったのは、なぜですか?
「ちょうどボーイズリーグの日本代表に選ばれて、エースナンバーをもらったときだったんです。病気になって日本代表は辞退したのですが、すべてがうまくいっていたので、“野球を辞める”という選択ができなかったんです。いちばん熱中できたのが野球でしたし、先生には“絶対に運動してはいけない”と言われていましたが、無理をしてでもやりたいと思っていました」
イチローさんの出身校である、愛知工業大学名電高等学校(以下、愛工大名電)に進学し、甲子園出場を目指すことにした柴田さん。しかし、患った病気との闘いで、周りからは「野球なんて無理じゃない」といった否定的な意見ばかりを言われました。
難病と向き合いながら、それでも自分の可能性を信じられたのは、信頼できる監督と、ともに練習を行う仲間たちの存在でした。そして高校3年生のとき、念願の甲子園のマウンドに立てることに。
──イチローさんが卒業した愛工大名電に進学したのは、なぜですか?
「僕の病気を理解してくれる監督がいたからです。わざわざ僕のところに来て“3年生の夏までリハビリをしよう”と提案してくださって。当時いろんな高校からオファーをいただいたのですが、自分のことをここまで考えてくださるところは他になかったので、この監督のもとで、もう一度野球にチャレンジしたいと思いました」
──野球部に入部した当時、身体はどんな状態だったのですか?
「身体を動かしていると突然腹痛が襲ってくるなど、日常生活もままならない状態でしたね。当時は身長175cm、体重45kgしかなく、ガリガリでした。最初は20分歩いてみて、それができたら30分に時間を延ばし、そこからジョギングを少し始めたりして、できることを増やしていきました。でも、ノックなどの激しい運動をすると、すぐにまた病気を発症して休まざるをえない状況もあり、一進一退の状態が続きました」
──どんな気持ちで練習に参加していたんですか?
「非常にもどかしかったですね。高校生のころって、練習すればうまくなる時期じゃないですか。その時期に本格的な練習ができず、ボール拾いやグランド整備など、みんなのお手伝いをするわけです。“この時間もっとトレーニングができたら、野球はもっとうまくなるのに”と思いながら我慢していました。
それでも高校の3年間、野球を続けることができたのは、チームメイトのおかげです。監督以外には病名まで伝えていなかったのですが、何かしらの病気を抱えていることを、みんなも感じていたと思います。そんな状態でも、周りの仲間は“大丈夫か”“手伝おうか”と言って、気遣ってくれました。もしも、“なんでサボってんの”とか言われていたら、ここまで続けられなかったと思います」
──そんな中、3年生の夏に甲子園に出場されますよね。
「そうですね。愛工大名電はそれまでも毎年、甲子園には出場していました。僕自身は、年々少しずつ練習量を増やしてきたものの、万全な体調ではなかったので、出場メンバーに選ばれることはありませんでした。それが3年生になって選ばれ、甲子園では4イニングだけですがピッチャーとしてマウンドに立ち、0点に抑えることができました。あの場所に立つことだけを目指して3年間頑張ってきたので、すべてが報われた気がしました」
ジャイアンツ一軍が見えてきた矢先での引退
甲子園に出場したら野球を終わりにしようと決めていた柴田さん。しかし、周りから背中を押されるように、大学でも野球部に入り、ドラフト会議において巨人軍に育成枠で選ばれます。そこで結果を出し一軍に上がるために、柴田さんは自分の課題と向き合います。
──明治大学に入って、野球を続けられますが、どうでしたか?
「高校では身体もきつかったので、大学では続けられないと思っていました。でも甲子園出場前に、初めて病名を発表したときに、全国のいろんな人から“勇気づけられた”と応援のお手紙をいただいて、背中を押された感じです。
大学に進学すると、不思議と病気が再発しなくなりました。そして、大学4年生のときにジャイアンツ二軍との試合で、3回パーフェクトピッチングをして、ドラフト会議ではジャイアンツから育成枠で指名していただきました。社会人野球からも声がかかり迷いましたが、大学の野球部の監督と相談した末、ジャイアンツの育成選手の道を選びました」
──プロの世界はどうでしたか?
「レベルが高かったですね。ジャイアンツには一軍、二軍、三軍とあって、育成選手は基本三軍からのスタートです。1年目は防御率20〜30点で全然結果が残せず、このままだとあと1年でクビになると思ったので、2年目はすべてを変えるために、厳しいコーチに懇願して、猛特訓を受けることにしました。
すると2年目には二軍に上がり、中継ぎ投手として30試合に登板し、防御率3〜4点台に安定させられるようになってきました。オフには先輩の自主トレに参加して身体を鍛え、3年目のキャンプでは“そろそろ一軍で投げてみるか”と、声をかけてもらった矢先に、今度は盲腸で倒れて緊急入院しました。結局、開腹したことで動きが悪くなり、球速146キロを出していたのが、120キロしか出せなくなり、3年で戦力外通告を受けて、引退を決意しました」
──悔いはなかったですか?
「これまで、やれることは精いっぱいやってきましたし、このタイミングで盲腸になるのであれば、プロとしての道はもう終わりだと思ったので、悔いはなかったですね」
ベーチェット病になって得た“最短で目標を達成する”力
これまで一度も経験したことのない就職活動を開始した柴田さん。100名近いOBを訪問し、自分のやりたい仕事を見いだします。しかし、ここでも紆余曲折(うよきょくせつ)があり、最初に目指していた業界ではないコンサルティングファームのアクセンチュアへ転職を果たします。就職活動で役立ったのは、アスリート時代に培った考え方でした。
──セカンドキャリアはどのようにスタートされたのですか?
「25歳で、ジャイアンツを戦力外通告となって、すぐに“球団職員にならないか”と声をかけてもらいました。1年間ごとの契約更新だったので、“それなら1年後に入る転職先を探そう”と思い、球団職員をやりながら学生時代にはできなかった就職活動をスタートさせました。
まず、大学野球部の同期35名の中で、企業に就職した人とそれ以外の大学の友人に片っ端から電話をして、就活の方法をイチから聞きました。そこで教わった自己分析や業界研究などをすべて行い、自分の興味のある業界・職種を絞っていきました」
──自分に合った業界はどのように選びましたか?
「ひとつは、“野球を通じて自分自身を磨いてきた”という自負があったので、モノを売るよりも、“自分自身が商品になる仕事をしよう”と。もうひとつは、プロ野球選手として1億円プレイヤーになりたかったので、“激務だけど稼げる仕事”です。この2点で選んだのが“総合商社”と“広告代理店”でした。でも、本当に自分に合っているのかどうかがわからなかったので、それ以外の業界の人とも比べてみようと思い、他の業界も含めて、半年で100人近いOBに会って、話を聞きました」
──多くの人は、そこまでできないと思います。なぜ、柴田さんはできたのでしょうか?
「最短で目標を達成できるプランを考えますし、それを実現するまで諦めるのが嫌な性格だったからだと思います。今回も、自分にいちばん近い境遇の人(大学野球部の同期)にまず聞き、それ以外の人たち(大学の友人など)とも比べて、自分に合ったやり方を探しました。やはり経験のある人に聞くのがいちばんだし、それが自分と同じ境遇の人なら気をつけるべき点も見えてくると思ったからです。
このような考え方をするようになったのは、ベーチェット病になってからだと思います。身体が弱いので、周りの人のようにすべてのことはできません。野球選手時代も“これをやったら結果が出る”“これなら近道だ”というのを、他の選手のやり方を参考しながら練習などに取り入れていたので、その考え方で就活にも臨みました」
──転職活動中は、つらいことなどはありませんでしたか?
「正直ないんです(笑)。ただ就活でのOB訪問の際には、“野球しかやったことないんです”という話をすると、“無理だよ。そういう人が入社したことないから”“書類選考が通らないよ”と、よく言われました。
そのときは、必ず“なぜ、そう思うんですか”とOBの人たちが考える“無理だ”と思う理由を聞き、それを一つひとつ、つぶしていくことにしたんです。そうすれば、行きたい企業に就職できる可能性が高まると考えました。
実は高校生時代も、“甲子園出場なんて無理だよ”とさんざん言われてきて、それをどう埋めていくかを3年間ずっと考え、取り組んできました。“難病を持ちながら甲子園へ出場するよりは、簡単だぞ”と思って。この成功体験が大きいと思います」
──結果、外資系のコンサルファームを選んだのはどうしてですか?
「総合商社と広告代理店、全部で4社だけエントリーして最終面接に残ったのは、大手広告代理店の1社だけでした。最終面接で、面接官に“入社後にどんなキャリアを積みたいの?”と質問されたときに、“えっ?”となったんです。僕はそこで、“その会社に入社すること”がゴールになっていたことに気づき、それが面接官にも伝わったのが、すぐにわかりました。
確かに、この会社に入ったらそれに満足して、それ以上成長できなかったと思います。これではまずい。その先を目指せる会社を探そうと、調べて見つけたのが、外資系コンサルファームでした。ほとんどの社員は3年働くと、退職して新たにやりたいことを探すと聞き、それなら“3年間外資コンサルファームで死ぬほど働こう”と。それで、その後に商社や広告代理店に行きたかったらチャレンジすればいいし、違う道に進むのもありだなと思い、アクセンチュアに入社しました」
アスリートはその後のキャリアで人生を2度生きることができる
アクセンチュアに入社し、激務の中で提案技術や社会人としてのスキルを身につけた柴田さん。その後独立し、起業家の現在に至ります。
──25歳からセカンドキャリアをスタートして、一番大変だったことは何ですか?
「アクセンチュア入社後は、死ぬほど働いていたので、もちろんきついことはありましたが、総じて楽しかったです。野球選手にもなったし、サラリーマンや経営者も経験し、人生を2度生きている感じがしました。どちらかを語れる人は大勢いるんですけど、どちらも話せる人はほとんどいなかったので、よい経験ができていると思います。この取材も受けることができましたし(笑)」
──最後に先輩アスリートとして、セカンドキャリアを考えている人にアドバイスすることはありますか?
「まずは、自分がやっている競技を本気でやることだと思います。そうしないと、必ず後悔するときがやってきます。実際、引退しても諦められずに、またトライするというアスリートも少なくありません。
もし25歳からプロを目指しトライしてプロになれたとしても、30歳あたりに戦力外通告になると、そこからもう一度転職活動をしなければなりません。これが5年前の25歳なら、ポテンシャル採用でいろんな可能性があったのに、その年齢になると狭き門になってしまいます。
それは非常にもったいない。だから、アスリート時代は悔いを残さぬように目の前の競技に全力で取り組むことです。そういう人のほうが、セカンドキャリアも全力で取り組むので結果も出やすいです」
(取材・文/西谷忠和、編集/本間美帆)