身につけた語彙が増えれば、事物を多角的にとらえることができる
──抽象的な質問になってしまいますが、言葉とは、何なのでしょうか?
「それは大変難しい問題で、いずれ一書をなすつもりです。これまで私が論じてきた仏教というのは、常に言語を問題にしてきたわけです。そんな仏教哲学的な立場から言語をどうとらえるかということは、絶対に考察しなければならないと思っています。
この本に絡めていうと、辞書の定義上では同じ意味の言葉があるじゃないですか。例えば、「笑う」「笑む」「ニコニコする」。本書では、『莞爾(かんじ)』という難しい言葉も取り上げましたが。
(かんじ【莞爾】:にこにこ笑みを浮かべるさま。にっこり微笑するさま。にこやかな様子。「莞爾として笑う」「莞爾と笑みを含んだ」/『教養としての上級語彙―知的人生のための500語―』より・以下同)
それぞれ辞書で引くと、おおよそ同じ意味と書いてある。辞書というのは「ある言葉を別の言葉で定義する」ことを旨とする書物ですから、まあ仕方ないのです。しかし「笑む」「笑う」「ニコニコする」は、実は意味も用法も違うでしょう。よく、難しい表現など使わず、同じ意味の易しい言葉に言い換えて使うべきだ、なんていわれますが、違うんですよ。 極論するなら、ひとつとして「同じ意味」の言葉なんてないんです。この本で二重否定の用法について詳解していますが、二重否定を単純に肯定とみてはいけない。二重否定を使うべきところというのは必ずあるのです。「認めざるを得ない」と「認める」とでは違うでしょ。でもこの違いを言葉で表すのはすごく難しい。
──“言い表すことはできないのだけれど、それぞれなんだか違っている”という理解ができるようになるんですね。
はい。つまり、言葉の多様性というものが、事物の多様性をもたらすといえます。語彙が増えるということは、この世界における人の認識や感覚の細やかさ、思考の分明さと複雑さを緻密に捉えられるようになるということです。
この本で取り上げた、伊丹十三さんの例もそうですね。漢籍に親しんだ伊丹さんは、「しずむ」「あかい」といった何気ない言葉でも、何通りもの漢字で細かな使い分けができたといいます。
(だから私は、たとえば「沈む」のほかに「淪む」「湎む」を使った。「赤い」のほかに「朱い」「紅い」「赫い」「丹い」「赭い」「緋い」を使った。/伊丹「辞書」『再び女たちよ!』文春文庫)
また、複雑な社会問題や政治問題について、すごく単純にしか理解できないということは、実は言葉の「平明」化に起因するのではないかと思っています。言葉が「平明」化するというのは、世界が平板化してしまうことと同じなんです。
(へいめい【平明】わかりやすく、明快なこと。「平明な解説」「平明に記す」)
宮崎さんが語る、めくるめく言葉の世界。インタビュー第2弾では、本書で取り上げられた実例をいくつも交えつつ、現代において誤用されている語彙や、使われ方が変わってきた語彙について、詳しく教えてもらう。
【取材・文/篠原諄也】
【PROFILE】
宮崎哲弥(みやざき・てつや) ◎1962年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。政治哲学、生命倫理、仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う。著書に『いまこそ「小松左京」を読み直す』(NHK出版)、『仏教論争』(ちくま新書)、『知的唯仏論』(新潮文庫、呉智英氏との共著)など多数。