地獄のような日々から救ってくれた、ダウン症のレッスン生たちとの出会い

──まるでドラマのお家騒動みたいですが、当事者からしたら、とんでもなく大変ですよね。

そこからが地獄。続けて父が、“俺はもうアクターズを辞める”と出ていってしまって、もうみんなパニック。翌日、父と私たちでなんとか話し合いの場を設けました。父は途中でみんなに、私の悪いところを言ってみろと突きつけたんです。最初は黙っていた仲間たちですが、父からのプレッシャーが大きすぎて、最終的にはワーッとひどい言葉が飛び交う状況に……

──想像するだけでもつらいですが、どのようにやり過ごしたのですか。

もう、ここは私が悪者になるのが正解だって思ったので、土下座をして謝りましたね。“アクターズスクールを乗っ取ろうとしていたんです、すみません”って。でも、実際はアクターズの状況は逐一、父に報告していましたし、もちろん乗っ取るつもりもなかった。だから、これはきっとスタッフたちをまとめるために父が用意した茶番で、私は今だけ嫌われ役を演じよう、みたいなつもりだったんです。

 その騒動は、“これからは俺がみんなの面倒をちゃんとみるから”という感じで終わりました。父からは2人になったあとに、“悪かったな”って言われると思ったんですけれど、違ったんです。“お前、(アクターズを)乗っ取ろうとしていたのか”って改めて言うんですよ(笑)。もう言葉が出なくて

──……。

「その騒動の翌日から、私と口をきいた人は裏切り者みたいな雰囲気になって、やりづらく感じていました。そうしたら、アクターズ横浜校の生徒が減っていて大変だから、立て直しに出向するように言われて、沖縄を離れることになるんです」

──新天地で仕切り直したのですね。

「異動になったとき、“もしかしたら父の背中ばかり見ていたのがいけなかったのかも”と思い、横浜校の生徒たちには、“私もマキノ正幸校長も、ときには間違った言動をするかもしれない。だから、最終的に何がよくて何が悪いかは自分で判断できたほうがいいよ”という話をしていたんです。ある日、父が横浜校に指導に来たとき、生徒のひとりが、父の言葉に疑問を抱いたのか、“できません”と言ったんです。その瞬間、父が“お前はクビだ”って怒って出て行ってしまった。

 責任を感じましたし、これまではマキノ正幸の教えが100%正しいと思っていたからやってこられたけれど、もう違う。きっとアクターズも父も変わってきちゃったんだな、と悟ったんです。そうしたら、もうここにはいられないって思ったのと同時に、アクターズの世界しか知らないで生きてきた私に何ができるんだろうって葛藤しました。辞めたいのに辞められない日々が続きましたね」

常に明るく語ってくれた牧野さんだが、このときばかりは一気に思い詰めた表情に……
撮影/伊藤和幸

──次の一歩に踏み出す前の、もがいている時期ですね。

しばらくレッスンのとき以外は部屋から一歩も出ない生活をしていて、部屋の中でずっと小田和正さんの楽曲を聴いていたんです。小田さんの曲を聴いていないと涙が止まらないっていう……もう鬱(うつ)に入った状態ですよね。そんなときに、ダウン症の子どもたちのダンスレッスンを受け持つことになったのです」

──『ザ・ノンフィクション』(※)にも取り上げられていましたね。(※ フジテレビ系ドキュメンタリー番組。牧野さんは、番組内で18年にわたって取り上げられたダウン症児ダンサーの指導にもあたっている)

「そうなんです。最初は、日本ダウン症協会から依頼を受けて、レッスンとショーの演出をすることになりました。ほかの場では、生徒たちにも“アクターズスクールの牧野アンナ先生”っていう意識があるのか、みんな私の前ではある程度ピシッとしますが、ダウン症児には肩書きが一切、通用しないんです。指導し始めても、誰も話を聞いてくれない。だから“彼らに話を聞いてもらうためには、徹底的に信用してもらう必要がある。まずはダンスを楽しいって思ってもらわなきゃいけない”と思って、すごく一生懸命になっている自分がいて

──新鮮な経験だったのですね。

「“1回踊るから見ていてね”と言って曲を流したら、みんな一斉に立ち上がって踊り出した。もちろん、私のことなんて見ていないんです。それまでは、“アクターズのチーフインストラクター”っていう肩書きが頭にちらついて、“こうあるべきだ”って自分を縛っていた。でも彼らと一緒に踊っていると、“誰もあなたのことなんて気にしていないよ”って言われている気がして、精神的に解放されたんですよね。“こんなに自由に踊ったことはないかも! “こうじゃなきゃ”って思わなくていいのは何年ぶりだろう”みたいな

──本心から楽しいと思えたのですね。

「レッスン期間が終わりに近づいたときに、ママさんたちから寄せ書きをもらいました。“この子たちは普通のダンススクールでは受け入れてもらえない。ダンスが大好きでも、この企画が終了したらダンスができなくなってしまう”と書かれていた。“子どもたちのことを認めて、ほめてあげる教え方に感動しました”とも言われて、逆に“私を受け入れてくれる場所があるんだ! ”って感激したんです。ダンススクールの先生になれる人はいっぱいいるけれど、この子たちの先生になる人がいないんだったら、私がやればいいんだと。その瞬間、“これを仕事にしたい”って思ってアクターズを辞め、『LOVE JUNX』(注:アンナさんが代表を務めるダウン症児を対象としたダンススクール)を設立しました。 '02年、30歳のときです

──ダンススクールを始めてからは、どのような日々でしたか。

「初めて自分でやりたいと思ってスタートさせたスクールなので、本当に楽しくて! 以前は、アクターズを辞めるなら、同時に指導者も辞めようと思っていたんです。でもダウン症の子たちと出会ったことで、新たな居場所を子どもたちに作ってもらいました。アクターズ沖縄校での、みんなの前で土下座をさせられたあの地獄みたいな出来事がなければ、絶対にアクターズを辞めていなかった。いや、辞められなかったんです。あのままインストラクターを続けていなかったおかげで、自分を嫌いにならずにすみました