導かれるように「私も鰹節を削りたい」
「母が作った料理に、私が鰹節を削ってふりかけて食べることからスタートしました。いつもは厳しい父親が“いい香りがするね”と話しかけてきたり関係も和んできて。鰹節のおかげかな(笑)。
そのうち鰹節のことをもっと知りたくなったんです。私は神奈川県で育ったのですが、ほかの地方なら鰹節削りが生活の身近にあるのかもしれないと、山梨県に向かいました。削り器片手に(笑)。そしてバスを降りたのは上野原市の西原(さいはら)でした」
西原は八王子から約50キロで昔ながらの原風景が広がる山間部の地域。村の人たちに「何してるの?」「何かの撮影?」と声をかけられる真依さん。
「長い間クラブ通いで遊んでいたので、私生活もどこへ行くのも10センチヒールをはいていたんです。スニーカーは持っていなくて(笑)。髪の色も全部ブリーチしてベージュ色でしたし、膝上のワンピース姿で削り器を持っていたからですね(笑)」
目立ったかいあって(?)地元の人たちが受け入れてくれた。
「私の削り方が下手だったので、村の人たちが削り器を取り出してきて“こうやって削るんだよ”って教えてくれたんです。田舎では鰹節って普通に暮らしにあったんですよ。
そこで学んだ話ですが、鰹節は昔は携帯食で、戦国時代は武士たちの戦場での食糧でした。鹿児島の知覧で聞いた話だと、一升瓶のお水とサツマイモと鰹節を持って逃げれば、1週間は生き延びることができると」
鰹節の作り方を知りたくなるのは自然な流れだった。それから3年半、南は宮古島から北は宮城県気仙沼市まで産地巡りの旅へ。
「最初に静岡の田子へ行ったんですが、生産者の職人さんが、自分の地域だけじゃなくて、鰹節の歴史や出汁を引くことが、なぜ日本で大事なのかという広い視野での話をしてくれたんです。産地によって鰹節に違いがあることがわかったので、3年半かけて全国かつお旅を続けました」
「作り手さんたちに代々続くネットワークで生計が成り立っている現場。私は新参者で信頼関係もないわけです。最初はただの“鰹節好きな人”としかみられなかった自分に対して悔しかったですね。それに職人さんから、もっと勉強してくださいってストレートに言われました。それでも辞めようって気持ちにはならなくて。ただ鰹節が好きで知りたくて、カツオと両想いになりたいって感じでした(笑)。
そしてある日、仕入れ先からの宛名が永松真依という個人名から『かつお食堂』に突然変わったんです。あのときはやっと鰹節の世界の一員として認められたんだって感涙でしたね」