学校は本来、“失敗するための場所”

「学校で何を教える必要がありますか?」と聞かれたら、私は「『教える』というよりも、たくさん『経験』させる必要があります」と答えます。その「経験」とは「成功」の経験ではなくて、「失敗」の経験です。失敗しなければ成長しません。失敗して初めて「次はどうしたらいいんだろう?」と考えるし、「わからないところを教えてください」と真剣にアドバイスを求めます。

 まずは子どもたちに自由にやらせることです。自由に考え、自由に行動させる。でも、ただ自由にさせるだけではダメでしょう。ポイントは、失敗を自覚させること、失敗したときには教員が声をかけることです。「次はこうしたら?」とか、「こういうのは?」とか。声をかけて、それを元にして子どもたちにまた考えさせる。この繰り返しが大切なのではないでしょうか。

 今の学校生活の中で、子どもたちが自由に行動できる場面がどのくらいあるでしょうか? そこが問題です。今の学校にはほとんど選択肢がありません。ルールばかりで、「このようにする」ということが前もって決まっている。これでは子どもたちが自分で考えてやってみる範囲が非常に狭められてしまいます。昔はもっと、子どもがどんな風にやってもよかったはずなんです。

教室でオルガンを弾く田中まさおさん。音楽や図画工作も教える

失敗させない教育は間違っている

 学校教育が子どもたちの選択肢を狭めてしまっています。典型例がいわゆる「まち探検」です。小学校の低学年の授業で、学校の近くの商店街を回ってお店の人にインタビューします。私だって多少は準備させますが、基本的には当日「はい、行ってらっしゃい。なんでも聞いてきてね」です。でも、今の学校は違う。探検に行く前の準備がたくさんあります。「お店に入るときは『失礼します』とあいさつしましょう」「店の人にはこういうことを聞きましょう」「店を出るときには『ありがとうございました』とお礼を言いましょう」。こんな感じで全部、準備します。極端な場合、教員が店の人の役をして、行く前に教室で事前練習をすることもあるようです。店の人も先生から頼まれて台本どおりに話したりして……。こうなったらもう、本番のまち探検は子どもたちにとって何の発見もない、つまらないものになってしまいます。どれだけ役割演技をできたかが勉強になってしまう。

 子どもたちは、ゼロから出発だからワクワクするのです。何が起こるかわからない。それが探検です。教員がかかわるべきことは、子どもたちの安全についての配慮だけで十分です。もっと子どもの力を信じてほしい。

「子どもたちが失敗しないように」と考えるところに大きな間違いがあります。失礼な言葉づかいで店の人に叱られたら、それでいいのです。その後ちゃんとケアすれば子どもの傷にはなりません。実際に叱られて初めて、「丁寧なあいさつが大事だ」と子どもは身をもって知るのです。

 絵を描くときの指導にも同じようなことが言えます。顔の絵を描かせる際、一般的な意味で「上手に」描く方法ってあるんですよ。よくない教員はそれをそのまま教えてしまう。「紙の大きさに対して顔はこれくらいの割合にして……」とか、「まず目と鼻から描いて…」とか。言われたとおりに描けば最初からなんとなくバランスが取れてしまう。でも、本来は自分で失敗を重ねるうちに、感覚的に描き方がわかってくるものでしょう? そのプロセスがなくなってしまうのは心配です。