12月1日に成年皇族となられた天皇家の長女・愛子内親王殿下は、5日に行われる成年の行事で天皇陛下から宝冠大綬章(勲一等宝冠章)を親授される。
続く儀式では、肌の露出が少ないドレスのローブモンタンから襟元が開いたライトブルーのドレス、ローブデコルテに着替えられて、天皇・皇后両陛下に深々と頭を下げてごあいさつをされる。一連の所作を何度も練習されたという。
それは、新しい親子関係の始まりでもある。
深夜まで勉学に励まれた理由とは
2014年4月、学習院女子初等科から中等科に進学した愛子さま。入学式の朝、正門の前で待ち受けていた記者団の前で、これから始まる中学校生活について問われると、
「楽しみにしています」
と、元気よく述べられた。実は、これが初めての正式な場での肉声だった。
記者団は「これまでの愛子さまは、恥ずかしがりやで人前に出るのが苦手なイメージがありましたが、この日は堂々とごあいさつをなさったので驚きました」という。両サイドで愛子さまを見守る皇太子ご夫妻(現天皇・皇后両陛下)は終始、笑顔だった。
中学校生活が始まると、愛子さまは初等科とは違った新しい環境になじもうと努力された。ところが、3か月を過ぎると、欠席や遅刻が次第に増えるようになってきた。
雅子妃殿下は、愛子さまが小学生のときのようにお付き添い登校をすることこそなかったが、愛子さまの疲れている様子にご心配されているといわれた。
そのころの愛子さまは、学校から帰ってくるとおやつを召し上がられて、夕食までに学校の宿題を済まされるのが日課だった。だが次第に、宿題の量と調べものの難しさゆえに、なかなか終わらなくなったという。新しく始まった学校生活の疲れも出て、仮眠をされてしまう日もあったそうだ。
結局、晩ご飯の時間もずれて夜遅くになることもあった。それから深夜まで再び勉強に取りかかるという受験生のようなスケジュールが続いたというが、なぜ、それほどまでに勉学に集中なさったのだろうか。その理由について、
「宮さま(愛子さま)は、中等科のクラスに中学受験をして入学してきた外部受験生たちに、勉強で負けていられないというお気持ちが強かった。提出物も中途半端なものは出したくないというこだわりがあったそうです。
ときには、明け方まで部屋の電気がついていたこともあって、朝起きられない日や体調を崩される日もありました。それは、宮さまが歴史や地理といった科目によって、皇族としてみなに負けてはいけない、手本にならなくてはいけないというお気持ちが強く芽生えていた時期でもあったのです」
と、当時の東宮職は語っていた。
それは、愛子さまの皇族としての意識が初めて強く表に現れたときでもあった。
両殿下のしつけが問われて──
だが、愛子さまが不規則登校になるのは、両殿下の叱らない子育てにあるのではないか、という見方の報道もされた。
前回の幼年期の子育てについてつづった記事でもレポートしたように、両殿下は愛子さまを情緒豊かなお子さまに育てるため、叱ってばかりいるのではなく、褒めて育てたいと願われてきた。だが、それはあくまでも愛子さまが3歳だったときのこと。
皇太子が2005年のご自身の誕生日会見で感銘を受けられたという米国の家庭教育学者、ドロシー・ロー・ノルト博士の詩を紹介したことを引用して、両陛下の教育を“叱らない子育て”と揶揄(やゆ)されることもあった。
皇太子が紹介なさった、スウェーデンの中学校の社会科の教科書にも載っている「こども」という詩は、次のようなものだった。
〈批判ばかりされた子どもは 非難することをおぼえる〉
〈賞賛を受けた子どもは 評価することをおぼえる〉
〈可愛がられ抱きしめられた子どもは 世界じゅうの愛情を感じとることをおぼえる〉
実際には、愛子さまが悪いことをなさったときには、注意をして言い聞かせたり、お叱りになったりすることもあった。だが、周囲は雅子妃が公務に出られないことや東宮家の情報がよく分からないということもあり、愛子さまが幼いときの子育てを中学生になっても行っているだろうと推測して、当てはめたものに過ぎなかった。
愛子さまは初等科のときにいじめ騒動などで不規則登校になったこともあり、今回もまた欠席や遅刻が続いているとなれば、報道が続くことは仕方のないことでもあったが、子どもに何かがあると、まず親のしつけが問われるというのは、今も昔も変わりない考え方だった。
2014年7月、愛子さまは両殿下と昭和天皇、香淳皇后の陵がある東京・八王子の武蔵陵墓地と三重県の伊勢神宮を初めてお参りされた。皇族としての意識が高まっていただけに、両殿下はこのタイミングを選ばれたのではないかともいわれた。愛子さまが自ら興味を示されたタイミングを親が見計らって体験をさせるというのが、両殿下の決して急がせない教育でもあった。
「皇太子殿下と愛子さまは、日本史や世界史について語られる時間が増えたと言われました。愛子さまは初等科6年生の時に『藤原道長』というタイトルの歴史研究レポートをお書きになって、文集に4ページにわたって紹介されました。文末に《道長の人生は本当に幸せだったのだろうか》とつづられていたところからも、皇族としてのお立場や幸せについて考えていることがわかります」(宮内記者)
地理の授業における「日本以外の国を自分なりに紹介する」という課題では、スペインを選ばれて、大学生となった現在も第2外国語でスペイン語を選択なさっている。
その年の12月1日。13歳の誕生日を迎えられた愛子さまは、夕方、天皇皇后両陛下(現上皇・上皇后ご夫妻)にご挨拶をするため、初めておひとりで皇居を訪問なさった。両陛下の重みのあるお言葉からも、多くのことを学ばれたに違いない。
戦争について熱心に学ばれる愛子さま
2015年は戦後70年という重要な年だった。中学2年生になった愛子さまは、その年の夏、両殿下とご一緒に「昭和館」(東京・九段下)と「日比谷図書文化館」(東京・日比谷公園)を訪れた。公務で戦争に関連する施設を訪問したのは、初めてのこと。
戦中戦後の歴史的資料を展示する「昭和館」の特別企画展「昭和20年という年~空襲、そして復興へ~」では、まず3階の会場に向かわれて、1945年の終戦当時の写真や手紙などをご覧になった。
「愛子さまは、国民学校の女子児童が終戦を告げた昭和天皇の“音玉放送”を聞いて書いたという作文を熱心に読まれていました。女子児童と年齢が近いということもあり、強い衝撃を受けられたそうです」(元宮内記者)
「日比谷図書文化館」の企画展示会「伝えたい、あの日、あの時の記憶」でも、展示されていた傷痍軍人(しょういぐんじん)が身に着けていた2種類の義手に見入られて「これも義手なんですね」と尋ねられたという。現場にいた宮内記者らは、愛子さまが展示物を丁寧にご覧になっていたのが、印象的だったと語った。
愛子さまは、お住いの赤坂御所に戻られてからも太平洋戦争について皇太子に質問されるなど、戦争へのご関心は続いていた。
「質問のあとには、宮さまご自身でも書物でお調べになってご確認されるという探求心ぶりでした。前年の伊勢神宮への参拝後もそうでしたが、長い歴史を感じられて、そこにご自分も重なっていると思われることが、未成年皇族として重要なことではないでしょうか。皇太子殿下がそうであったように、宮さまも殿下と同じお気持ちを継がれていらっしゃると思いました」(宮内庁関係者)
皇太子さまは、愛子さまが戦争について学ばれたことについて、
「愛子にとって勉強になり、いい体験になりました」と感想を述べられている。
両殿下は外国訪問先のトンガから戻られたばかりで、療養中の雅子妃も前年から重要な公務に立て続けに出られるなど、ご体調は上向いていた。2年ぶりとなった外国訪問だったが、帰国後もお疲れが何日も残るということはなかったという。
愛子さまは、雅子妃が病に立ち向かい、国内外の務めを果たされようと努力しているご様子を身近で見てこられた。戦争と両殿下の務めのあり方を学んだ年だった。
このころになると、前年からの不規則登校はすっかりなくなり、学校行事の運動会などでは随所に笑顔が見られるようになっていた。
「学校が休みのときには、お友だちとご一緒にホテル内のボウリング場や水族館、ディズニーシーなどに遊びに出かけられるなど、勉強に運動、お友だちとの遊びに充実した毎日を過ごされていたようです」(学習院関係者)
2016年、中学3年生という最終学年を迎えられた愛子さまは、精力的なご活動が続いていた。両殿下も愛子さまを公務にお連れになる機会が増えていた。ご一家で映画館や美術展をはじめ神武天皇陵と京都御所への訪問(7月)や長野県での「山の日」を記念した初の式典にもご臨席(8月)。愛子さまは、ご静養先でも居合わせた人たちと気軽に交流された。
“激ヤセ”の時期を乗り越えられて
ご活動が広がれば、メディアの露出も増える。
季節は夏ということもあり、いくぶんほっそりとされた愛子さまに、お友だちや赤坂御所を訪ねてきた人たちから「痩せてきれいになったね」と言われたことがきっかけだった。
愛子さまは、幼いころから報道陣に囲まれて育ってこられたが、このころ、写真や映像を通じて人から称賛されるということを知ったといわれた。外見を気になさるのもご成長のひとつ。思春期ならではの乙女心だったのではないだろうか。
以来、愛子さまはダイエットに励まれて、夏を過ぎた9月ごろには胃腸の調子が悪くなり、ふらつきが見られるまでになった。脱水症状などもあり、大事をとって学校を長期欠席せざるをえなくなった。
雅子妃と愛子さまの「食べなさい」「食べない」の押し問答が続いたという。愛子さまは次第に喉ごしの良い蕎麦や豆腐といったものばかりを好んで召し上がられるようになり、体調は安定しなかった。
3学期のころには、最も痩せられていたが、欠席まじりながらも登校はできるようになっていた。見た目よりはお元気なご様子で、激ヤセでの心身への影響は深刻化することはないだろうというものだった。
卒業記念文集で「世界の平和を願って」という作文を発表。中等科3年の5月に3泊4日の修学旅行のなかで行った広島市の原爆ドームを前に
〈私は、突然足が動かなくなった〉
〈これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった〉
と、つづられた。
平和記念資料館の展示を見て、原爆が何十万人の命を奪ったことに〈怒りと悲しみを覚えた〉という。そして〈日常の生活の一つひとつに感謝し、他の人を思いやることから「平和」は始まるのではないだろうか〉として、
〈唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に発信していく必要があるのだと思う。「平和」は、他人任せにするのではなく、ひとりひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから〉
この作文は、後に日本人女性で初の国連事務次官就任した中満泉さんが、現在の両陛下と面会なさったとき(2020年)に、雅子皇后からコピーを手渡されたという。
中満さんは感銘を受けて、自身のツイッターでも愛子さまの作文の一部を紹介した。
学習院女子高等科に進学した愛子さまは、食事は元どおりになったと言われたが、過激なダイエットによる免疫力の低下で、風邪をひきやすかったり、疲れやすくなったりしていたという。
季節はまた夏になり、愛子さまは少しふっくらとなさっていた。静養先の那須御用邸のある那須塩原駅のロータリーでは、愛子さま自ら出迎えた子どもに声をかけられるなどお元気なご様子だった。
現在、そしてこれからの愛子さまのご動向は
両殿下が高校生活で愛子さまに体験させたかったのが、海外への短期留学だった。皇太子さまは、その年のマレーシアへの外国訪問(4月)の前の会見で、愛子さまの国際感覚についての質問に、
「今後とも、愛子にはできるだけ若いうちに国際感覚を身につけていってもらいたい」
と述べられていた。
実際に、愛子さまは高等科2年の夏、学校のサマープログラムで英国のイートンカレッジサマースクールへ短期留学をされた。ロンドンでは、同級生とイートン校の学生寮に滞在、英語教育のほかに、英国文化の体験授業としてロンドン市内や近郊の各都市も巡られた。大好きなお友達とご一緒ということもあって、3週間の留学経験は、愛子さまにとって忘れがたい、いいご経験となった。
同年の「宮内庁職員組合文化祭美術展」(宮内庁)にも、留学先で撮ったという写真を出品。皇太子さまが留学していたオックスフォード大学や英国の景色などがカメラに収められていた。
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、高等科の卒業式には、愛子さまおひとりで臨まれた。記者の質問にも、
「たくさんの経験ができ、また、とても楽しく、とても充実した学校生活を送ることができたと思います。お世話になった先生方やお友達、すべてに関わってくださったみなさまに、心から感謝しております」
と応えられた。
卒業式のあと、愛子さまはお友達と校舎に向かって「ありがとうございました」と声をそろえて、深々とお辞儀をなさったという。
お住いの赤坂御所に戻られた愛子さまは、両殿下に「きちんと学校にもお礼を言ってきたよ」と伝えられた。
それを聞いた両殿下は、愛子さまの学校を学習院にして本当によかったと思われたという。
愛子さまの大学の進学先がどこになるのか、早くから注目されていたが、結局は学習院大学文学部の日本語日本文学科に決まった。
2020年4月に行われる予定だった入学式はコロナ禍で中止となり、1年遅れの今年4月に行なわれた。昨年10月24日に初めて通学された愛子さまは、新入生ガイダンスに参加されたあとにお友だちと会話をなさるなど、早くも大学生活に溶け込んでいらっしゃるご様子だったという。
今年になっても大学のオンライン授業は続いていた。愛子さまのお姿は宮内庁の職員ですらあまり見かけないというほど、授業に集中される日々を過ごされているそう。
国民にとっても、愛子さまのお姿を拝見できなくなったのは残念なことだが、両陛下は、コロナ禍でみなが苦しかったり、窮屈だったりするときこそ、今ある恵まれた環境(新御所)に感謝をしながら、静かに過ごされることを大切になさっているという。
ご両親の愛子さまへの教えは、20年を迎えようとしている今でも受け継がれていた。
来年3月になるという成年皇族の会見で、愛子さまは何を語られるのだろうか──。
(取材・文/友納尚子)
※ご誕生から小学生時代までを追った【愛子さまの軌跡#1】【愛子さまの軌跡#2】もあわせてお読みください。