1990年代後半から2000年代にかけて、自らの体験を赤裸々につづったエッセイ『だって、買っちゃったんだもん!─借金女王のビンボー日記』(角川書店)や、『ショッピングの女王』シリーズ(文藝春秋)で女性たちの支持を集めた、作家でエッセイストの中村うさぎさん(64)。’13年には、スティッフパーソン症候群という名の難病を患い、心肺停止となって生死をさまようという壮絶な経験も。
インタビュー第1弾では、彼女の半生を語るうえで外せない、買い物依存、ホストクラブ通い、幾度にもわたる整形手術について、余すことなく話してもらった。
電気・水道代を滞納、原稿料を前借りしてでもハイブランドの商品がほしい
──さっそくですが、中村さんは’90年代、33歳のころから“買い物依存症”に陥ったと聞きました。当時は、ご自身がそう呼ばれる状態だという意識はあったのですか?
「ない(即答)! ないですね。普通に買い物が止められなくて、“私ってバカなんじゃないの”って思っていたんです。でも、心理学の本を読んでいたら、依存症にもいろいろあることがわかって、そのひとつに“買い物”って書いてあった。“もしや……?”と思い、当時住んでいた家の近くにあった、有名な依存症専門のクリニックに通い始めたんです。治療はグループセラピーが主でしたが、“私には効かないかな”と、途中で行かなくなってしまいました(笑)」
──どうして、この経験を本にまとめようと思われたのですか?
「当時は主にライトノベルの作家だったのですが、ヒット作を連発していたんです。印税が入ってきたから、調子に乗って買い物をしていたら止まらなくなって。電気代や水道代も滞納して、ついには水道も止められちゃったんです。よく“水道は絶対止められない”って聞くけれど、ウソでしたよ(笑)。あるとき、出版社の偉い人と食事していて、“私、ご覧のとおりシャネルのワンピースを着ているけれど、水道、止められてるんだよね!”って言ったら、“それ、面白いからエッセイにしなよ”って言われて書き始めたのがきっかけです」
──“買い物依存症”を周囲にカミングアウトすることに、ためらいはなかったですか?
「本を出したら絶対バカにされるけど、そこそこ読まれるはずだって思いました(笑)。読者が面白いと思ってくれれば、もう私的には大満足なのです。最初は“人としてダメだな”っていう恥ずかしさが多少あったけれど、途中から“私の人生だから別にいいじゃん”って、開き直っていましたね」
──いちばん買い物をしていた時期は、いつごろでしたか?
「もっとも浪費していたのは、35歳のころかな。ブランド物にしか価値がないと思っていたから、ユニクロの商品を買う感覚で、ハイブランドを買いあさっていました。
当時の出版業界って、前借りの風習があったんですよ。特に男性作家の場合は、女やギャンブルに全部使ってしまうのが、“ある意味カッコいい”みたいに言われて、もてはやされたりもする。女性作家は“だらしがない”って言われましたが(笑)。最終的には、もろもろの支払いが滞って、半分くらいまで原稿を書いたら全体の原稿料を前借りをするってことを繰り返していました。それでも限界がきちゃって、まだ書いてすらいない本の原稿料を前借りしようとしたら、“お前は太宰治か”って言われたのよ(笑)」
──やがてお金の使い道が、買い物からホストクラブに変わっていったとのことですが、ホスト通いを始められたきっかけは何でしたか?
「最初は、“新宿二丁目にあるお気に入りのお店で遊ぶのにも飽きてきたし、歌舞伎町のホストクラブにでも足を伸ばしてみるか~”っていう軽いノリで行ったんです。40代になったころかな。お店に入って、渋めのオジサンが私の席につくかと思ったら、ジャニーズっぽい可愛い男の子がいて、ハマっちゃたんですよね。でもホスト通いのことを書き始めたとき、読者は絶対に離れるだろうなと思ったんです」
──どうして読者が離れると考えたのですか。
「だって、ホストクラブに対しては、世間的に好き嫌いや偏見が根強くありますよね。でも、自分はすっかりハマっちゃったから、もう買い物なんてどうでもよくなった(笑)。ホストのほうに時間とお金を注ぎ込み始めたから、自然と買い物する割合が減っていく感じでしたよ」
──ホストクラブでは、どのようにお金を使っていたのですか。
「いちばんお金を使うのは、“締め日”って言われている、その月の売り上げトップが決まる月末と、指名しているホストの誕生日。私がハマっていたときは、まだシャンパンタワーはなかったんです。新しい文化なんですよ(笑)。だから、シャンパンのボトルを何度も入れていました。私のお気に入りのホストは7歳年下だったから、“この子を一人前にしてあげたい”みたいなパトロン気分だった。でも、私がどんなに頑張っても、ほかのホストをナンバーワンにしたい客が、そっちにさらに貢いだりして。結局ホストクラブって、女性客同士の争いなんですよね」
──買い物の戦利品と違って、ホストは人間じゃないですか。それだけお金を使ったのに見返りなどがない場合は、嫌になったりしませんでしたか?
「お金を使っていたら、最終的には嫌になりますよ。やっぱり恋愛と同じで、2、3年ぐらいが限度なんじゃないかな。でも、お金を精いっぱい使い続けて、ついに限界を感じたときに、相手が枕営業(業務上で付き合いのある人間同士が、性的な関係を築くことによって物事を有利に進めようとする営業方法)を仕掛けてきたんですよ」
──それで、もっとハマっていってしまったのですか?
「恋愛ゲームみたいな感じに移行して、1年ほど関係が続きましたね……。最終的には“今後は私がいなくても頑張ってね”とお別れしましたが。
でも実は、次に“ハマる”ものが見え始めていたんです。40代半ばのころ、ホストに通いながら、雑誌の対談で美容外科医の高梨先生(タカナシクリニックの高梨真教院長)と意気投合したんですよ。それで、先生から“整形してみませんか”って打診されて」
整形でコンプレックスを解消し新境地に。「私、もうホストいらない!」
──買い物、ホストときて、整形にハマり始めるのですね。
「やっぱり私も、整形にはかなりのハードルがあったんですよ。でも、『メスを使わないプチ整形で、どこまで芸能人に顔を似せられるか』っていう企画だったから、失敗しても面白いし、40代で整形して芸能人に似せようっていうのが私っぽいなと思ったので、やろうと決めたんです」
──当時、女優の奥菜恵さんの顔になりたかったというエピソードを見た記憶があります。
「違うんですよ! 私は、“中山美穂になりたい”って言ったんです。そうしたら即座に、“顔立ちが近くないとできないから無理です”って返されて(笑)。ああいうシュッとした顔が好きなのに……。そのあと、目の形とかを考慮すると、奥菜恵さんの顔がいちばん近いっていう話になったんです」
──体験取材でも、自分の身体を使うのには勇気がいると思いますが……。
「なんだかんだ整形をしてみたら、自意識が変わって、整形自体を面白く感じるようになったんです。私、丸顔で顎も丸いのが中高時代からずっとコンプレックスでした。奥歯を抜いても、やせても、変われなくて。それで顔にボトックス注射をして、ヒアルロン酸を打って、顎(あご)を尖(とが)らせましたね。その施術の帰りに、くらたま(漫画家の友人・倉田真由美さん)とタクシーに乗っていたとき、自分のシュッとした顎を鏡で見て、思わず“私、もうホストいらない”って言ったんですよ!」
──それは興味が整形に移ったからですか?
「ホストには、自分がまだ女性として現役かどうか知りたいとか、男にちやほやされることでステータスを上げたい、と思って通っていた部分があると思うんです。それは、買い物もそう。私の場合、ブランドものを持つことで“おしゃれ”って言われたいわけじゃなくて、それだけ稼げる人なんだって思われたかった。結局は、周囲から見た自分の価値を底上げしたかったんですよ。それが、整形して自分の身体に満足し始めたら、シャネルを着ている必要も、ピチピチの男が横にいる必要もないと感じて。そこからはもう、整形にハマっちゃった」
──プチ整形から始まり、これまでに、どのような整形をされましたか?
「顔を10か所以上と、豊胸手術もしていますが、フェイスリフトは何回かやりましたね。顔の皮を剥(は)いで、引っ張り上げるのね」
──聞いていると痛そうですが──。
「ボコボコに殴られたみたいに顔が腫(は)れました(笑)。1週間くらいバンテージを巻いて過ごさなきゃならないので、みんな引きこもるらしいけれど、私は普通に飲みに行っていましたね(笑)。整形手術って、1か所すると何か所もしたくなる。次々と、“ここを直したらもっとよくなるんじゃないか”って思うじゃない。それも買い物やホストと同じで、一種の依存症だと思うんです。ここでも、自分をどんどん底上げしていっているような快感が、だんだんエスカレートしていくわけですよ。でもやっぱり、最初がいちばんなんだよね。例えば、あとから鼻を直してシュッとしても、最初のほうに目と顎をいじったときほどの快感はないんだよね。それはもう、その後、豊胸してもヒップアップしても全部同じ」
──買い物、ホスト、整形にハマってきたなかで、どのくらいお金を使われたのでしょうか?
「整形は、高梨先生とタッグを組んで、自分の身体を好きに使ってもらう代わりに支払いが免除された部分もあるけれど、買い物依存は33歳から10年くらい続いたわけで……。当時は年収が3000〜4000万円あったものの、今まったく残っていないし、原稿料の前借りまでしていたとなると、けっこうですよね(笑)。ホストにも、累計で数千万円はつぎ込んだんじゃないかな」
’90年代の女性が抱えていたジレンマとは? 欲望に従って生きた先にあったもの
──そういえば、著書『私という病』(’08年・新潮社)では、ファッションヘルスと呼ばれる性風俗の店舗で体験取材を行った様子が書かれています。周りの反応はどうでしたか?
「“いわゆる身体を売るような仕事をしたんだから、誰とでもヤルんだろう”みたいに思われるのは違うじゃない。仕事の体験取材でやってるんだから……(苦笑)。だけど男性の中には、その境目がわかってない人も結構いましたね。体験取材を通してわかったのは、私って、男の人のことがずっと苦手だったんだなってこと。ホストにハマったこともあるけれど、心の奥では男性が怖かったのかもしれない。女子高生のころに痴漢されたし、コピーライター時代にも、おじさんからセクハラを受けたからね」
──著書の中では、東電OL殺人事件(※)について触れていますが、何か思うことがあったのでしょうか。
(※ ’97年に、東京電力の社員だった女性が渋谷のアパートで何者かに殺害された未解決事件。被害者女性は、有名私大を卒業し東電に初の女性総合職として入社したが、退勤後には路上で客を勧誘し売春を行っていたとされ、昼と夜で“まったく別の顔”を持っていたことが議論を引き起こした)
「あの事件が報道されたとき、実際に身体を売るような仕事をしていたわけじゃなくても、“あの事件の被害者は私かもしれない”って感じた女性も多かったと思う。それは、社会の中で女性が置かれているポジションと、本来の自分との差に違和感を抱いていたからじゃないかな。きっと、みんな心のどこかで、“ふとしたときに自分は暴走しちゃうんじゃないか”みたいな危うさを秘めていたと思うんです。
私の買い物依存だって、お金が入ったからとか、もともとブランドが好きだったから、みたいな表面的な理由だけで陥ったわけでなく、買い物みたいに日常的な行為を繰り返す中で、“昨日まで普通に生きていたのに、急に何かが爆発して、普通じゃなくなっちゃった”みたいな感覚がありました。 ’90年代の女性たちは特に、社会との付き合い方の中でやりきれなさとか、自分をどう表現していいかわからないジレンマを抱えていたのではないでしょうか」
──例えば中村さんの場合、自分の欲望に忠実に生きて失ったものはありましたか?
「いちばん大きく失ったのはお金だと思うんだけど(笑)、なんにも残っていないかからね。でも、精神的に何かを失ったということはないですね。ヘルスの体験取材をやるときは、周りから“そんなことしたら、大事なものを失ってしまう”って言われたけれど、自分的には何も壊れなかった。“身を落とす”みたいな言われ方もされたんです。でも、自分の意志でやっているんだからね……。やってみないとわかんないことって、いっぱいあるから。ホストクラブだって、行かないで外側から見ていても、本当のことなんてわからない。整形だって、やる前は私も否定的だったけれど、やって救われた部分もありますし。やっぱり、自分がハマってみないと見えてこないものってあるんですよ」
あくまで「自分がやりたいように生きる」という中村さん。彼女は一度、結婚・離婚を経験し、’97年にゲイの男性と結婚しました。再婚を選んだ理由は何だったのでしょうか。インタビュー第2弾では、ゲイで香港人のパートナーとの生活についてなどをお聞きしています。
(取材・文/池守りぜね)
【PROFILE】
中村うさぎ(なかむら・うさぎ) ◎1958年、福岡県生まれ。同志社大学文学部英文科卒。OL、コピーライターを経て、ジュニア小説デビュー作『ゴクドーくん漫遊記』(角川書店)がベストセラーに。その後、壮絶な買い物依存症の日々を赤裸々に描いた『ショッピングの女王』(文藝春秋)がブレイク。著書に『女という病』『私という病』(ともに新潮社)『うさぎとマツコの往復書簡』(双葉社)など。
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