発酵の謎に迫るシリーズ、“しょうゆ”の後編ではヤマサ醤油株式会社・醤油研究室の豊島快幸さんともう1人、宣伝広報室の西谷綾さんにも加わっていただき、おいしいしょうゆを作るためにどのように味覚を鍛えているか、また、しょうゆ研究から広がっていく“しょうゆの可能性”についてお話を聞きます。
味覚を鍛える基本は“食べるのが大好き”なこと
──食品メーカーを取材すると、研究員の方々は全員と言ってもいいくらい、官能評価(※1)のためのトレーニングを積んだり試験を受けたりしていますが、御社でも味覚を鍛えるトレーニングなどはされているのですか?
※1:官能評価:五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)を使い、商品・製品の品質を評価、検査すること
豊島「官能評価は重要なので、研究室で毎日しょうゆを口にするだけでなく、研究員同士で1つの味に絞ってディスカッションをするなど、日々研鑽(けんさん)を積んでいます。その他にも、一般財団法人日本醤油技術センターの“公認醤油官能検査員”の資格試験を受けたりもします。これはしょうゆの見た目や色、香り、味、成分などの品質をチェックするための資格です。
社内に公認醤油官能検査員の資格を持った研究者が多くいて、官能検査のレベルが上がるほど、自社商品の品質を保証することにもなるんです。公認醤油技能検査員の試験では、本醸造しょうゆとアミノ酸液が混じったしょうゆを嗅ぎ分けるような問題などが出題されます」
豊島「しょうゆを作るときに使うこうじ菌には“オリゼー群”と“ソーヤ群”の2種類があります。オリゼー群はしょうゆの他にも日本酒やみそ、みりん、焼酎などを作るときにも使われますが、ソーヤ群はしょうゆ用のこうじ菌です。どちらのこうじ菌を使ったかで風味にかなり違いが出てくるので、風味を識別する際の大きなヒントになります。弊社の“ヤマサ菌”はオリゼー群のこうじ菌なので、ソーヤ群の風味が強い時点で“これはヤマサじゃない”とわかるんですよ」
──それもやはりトレーニングの成果でしょうか?
西谷「そうですね。開発職の社員は基本5味(塩味、甘味、酸味、苦味、うま味)の感度を鍛えるために味覚研修を受けています。識別テストをすることもあります。しょうゆ以外でも、たとえばランチのおかずを口に入れたときでも、基本5味の五角形のグラフがすぐイメージできるように、普段から意識しています。
いま豊島がお話しした、自社と他社さんのしょうゆの違いを、匂いを嗅いだだけで判別できるかどうかという能力も、決して特殊な能力ではありません。最初は誰もが初心者からスタートしますが、味覚や嗅覚を鍛えているうちに、いずれは自社のしょうゆを識別できるようになります。大切なのは、食に対する興味と“食べるのが大好き”という好奇心だと思っています」
日本で“最初のソース”を作ったのはヤマサ
──味覚や嗅覚を鍛えられたエキスパートが集まって、新商品の味をチェックしていくのですか。
西谷「新商品の開発にあたっては、ちょっとずつ配合比率を変えるなど、いろんなバリエーションの試作品を用意して、味や風味などを比較します。刺身の赤身と白身で食べ比べたり、天ぷらやフライなどの揚げ物で試食することもあります。しょうゆを調味料で使うときの適性を見るのなら、里芋を煮てみたり、焼きおにぎりを香ばしく焼いてみたり、肉や魚に漬け込んだりもします。和食だけに限らず、洋食や中華料理との相性を見ることもよくあります」
──やっぱり、ソースやケチャップはライバルですか?
西谷「そういうふうに考えたことはないですね(笑)。さまざまな料理や食材に合うのが、しょうゆのよさだと思っています。戦後、急速に洋食が広まり、普及する中で、しょうゆは洋食やフレンチの“隠し味”に使われるようになりました。ステーキやハンバーグのソースにも、しょうゆはよく使われています。
また、和食と洋食が融合して“現地の食文化”となじんだのも、しょうゆの世界進出につながりました。たとえば、日本の寿司が海を渡って、アメリカでカリフォルニアロールになり、それが日本に逆輸入されて、またブームになったというようなケースですね。そういった流れを経て、しょうゆはアメリカの食文化に定着しました。和食の世界だけにとどまらなかったから、洋食化がどんどん進んでも、しょうゆは生き残れたのではないかと思います。
ちなみに、日本で“最初のソース”を作ったのはヤマサなんですよ。明治時代に広まった和風洋食の代表格がトンカツでした。そのトンカツに合わせて、明治18年(1885年)に弊社は“ミカドソース”という商品を発売しています。しょうゆベースで、酢や砂糖、しょうが、唐辛子などのスパイスを加えて作っていました。洋食でも、しょうゆベースの味わいを求めるあたりは、日本人の本能かもしれないですね」
豊島「生まれた国や土地によって、それぞれの食文化がありますからね。少し前にアジアから来ている留学生にしょうゆの味見をしてもらったことがあるのですが、彼らが口々に“日本のしょうゆは苦い”と言って驚いたことがあるんですよ。衝撃でしたね。われわれが自信を持って“おいしい”と思うしょうゆが、他の国の人には“苦い”と感じる。やはり“食は文化”だと痛感しました。だから官能評価でも“これがいい”と言い切れない難しさがあります」
──それでは、豊島さんが考える“いいしょうゆ”とはどんなしょうゆですか?
豊島「しょうゆ単体のおいしさよりも、“素材のよさを引き出す”しょうゆが、いいしょうゆだと思います。舌に素材の味よりもしょうゆの味が残ってしまうと、飽きがくることがあるので、個人的にはあっさりとして、キレのあるしょうゆが好みですね。贅沢(ぜいたく)を言えば、素材の生臭さなどの嫌な匂いはしょうゆがマスキング(覆い隠す)して、素材のいいところだけ引き出したり、少しだけ補ってくれるようなしょうゆが理想的ですね。ドラマに欠かせない名脇役のような(笑)」
うま味の研究がどんどん進化して、医薬品の原料に!
──ところで、御社はしょうゆメーカーなのに“医薬・化成品事業部”がありますよね。これもこうじ菌の研究と関係あるのでしょうか?
西谷「はい。医薬品事業のスタートは、しょうゆ作りの酵素のノウハウを利用したことでした。こうじ菌などのカビにはいろんな酵素を出す働きがあるのですが、その中の1つに核酸(※2)を分解する酵素がありました。さらに研究を進めると、特定の核酸に分解する酵素の発見につながりました。“イノシン酸ナトリウム”や“グアニル酸ナトリウム”という物質ですが、これらがうまみ成分だということがわかったんです。こうした発見を元に、弊社の“うまみ調味料”が開発されることになりました」
※2:核酸:人間の身体は約37兆個の細胞からできていて、その細胞の1つ1つに細胞核がある。細胞核は酸性なので核酸と呼ばれる。遺伝子で知られるDNAも核酸の1つ。
──そのうま味調味料から医薬品へは、どうつながっていくのでしょうか?
西谷「うま味調味料を作る際に出てくる副産物を、他の目的で使えないかと研究していくうちに、医薬品で使える可能性が出てきたんですね。弊社では調味料を作る技術を応用して、1970年代から医薬品事業が始まりました」
工場で食べられる“しょうゆソフトクリーム”
──御社の工場見学(現在休止中)に行くと、“しょうゆソフトクリーム”が売られているとのことですが、これってしょうゆ味のソフトクリームですよね?
西谷「はい(笑)。でも、普通のしょうゆをそのままソフトクリームにしたわけじゃなくて、“黒蜜風しょうゆ”という業務用のしょうゆを使っているんです。佃煮に使うような、色の濃いしょうゆです。最初は濃口しょうゆや丸大豆しょうゆを使っていたのですが、普通のしょうゆは入れすぎるとしょっぱくなるし、ちょっとしか入れないと色がつかなくて、見た目がバニラのソフトクリームと区別がつかないんですね。
それで、色をしっかりとつけるために“黒蜜風しょうゆ”を使ってみたら、はっきりとしょうゆらしさがわかる色になったのと、適度にしょうゆの風味も立って、しょうゆソフトクリームの味が決まりました」
──しょうゆメーカーだけに、どうしても“しょうゆソフト”を作りたいという願望があったんでしょうか?
西谷「そうかもしれません。何度も改良を繰り返して……。黒蜜風しょうゆも改良を重ねて、名前も何度か変わって、今に至ります。黒蜜風しょうゆは甘味があって、作るのにとても手間がかかるしょうゆなんですよ。だから、ちょっと贅沢なソフトクリームなんです」
──しょうゆ味のソフトクリームって、興味深いですね。どんな味がするんですか。
西谷「みたらし団子のような甘じょっぱさもありつつ、塩キャラメルみたいなあとを引く塩気もあって、ソフトクリームにぴったりなんですよ。現在は工場見学センターでの飲食が休止中なのですが、再開した際には、一度召しあがってみてください。本当においしいので」
(取材・文/久保弘毅)
※公開後にコメントの一部を修正しています。(2023/01/12更新)