東京・渋谷駅周辺の喧騒を抜けた一角にあるお店から、鰹節の風味豊かなやさしい香りが漂ってくる。ふわふわの削り節を炊きたての白米にのせた、カツオご飯を提供する「かつお食堂」だ。
店主の“かつおちゃん”こと永松真依さんは注文が入るたびにカウンターの中で鰹節を手で削り、カツオの種類や産地、おいしい食べ方など豊富な知識をお客さんに惜しみなく伝えることも。そんな「かつお食堂」は日本の食文化を伝えるお店として評価され、2022年から2年連続で「ミシュランガイド東京」の「ビブグルマン(※)」に掲載された。
鰹節との出会いから、唯一無二のお店をオープンするまでのパワフルな行動力はまさにギャル魂! “鰹節伝道師”への変身の軌跡を聞いてみた。
※高級レストランやホテルの評価を星の数で表す「ミシュランガイド」の中で、割安でありながら“値段以上に満足できる”飲食店を紹介するグルメガイド。
「大学時代はやりたいことが見つからなくて、就職活動もせず会社説明会にも行きませんでした。卒業した後は、派遣でラジオ局の受付をやりながら、仕事が終わればクラブに行く生活が続いていました。実家暮らしなのに朝帰りすることもあり、父親から “いつまでもフラフラして何やってるんだ” って何度も怒られて。
自分でも将来が見えなくてイライラしていたんですよね。仲間はやりがいを感じていたり仕事をしているのに、私だけ何も見つからずにいました」
夜な夜なクラブに通いつめる“ギャル時代”を過ごしていた永松真依さん。不規則な生活を心配した母親にすすめられて、福岡のおばあちゃんが暮らす家へ。気分転換のつもりで軽い気持ちで出かけたという。
「おばあちゃんが“結婚したときに、おじいちゃんがくれたんだよ”と戸棚から木箱のようなものを取り出したんです。初めは何だかわからなかったんですが、おばあちゃんが削り始めて鰹節の削り器だとわかったんです。
鰹節のいい香りがして、削るおばあちゃんの姿がカッコよくて。
しわしわの手で削り器を押さえて削るときに“フッ”って微(かす)かに言うところに、なんだか女の強さみたいなものを感じて。そしておばあちゃんがポソッと“昔はおじいちゃんが、出汁(だし)を引いてたんだよ”と教えてくれたんです。
おじいちゃんは神事に仕えていて、何でも手作りする人だったんですね。そのおじいちゃんの作るお味噌汁がいちばんおいしかったんです。前日から昆布を入れて、鰹節でちゃんと出汁を引いた野菜たっぷりの100パーセント天然物のお味噌汁。残念なことにおばあちゃんも母も誰もレシピを知らないうちに亡くなっちゃって。
でも、このときピンときました。おじいちゃんの味噌汁がおいしかったのは、この削り器で削った出汁だったからだと。その削り器は、私が受け継いで持って帰りました。
導かれるように「私も鰹節を削りたい」
「母が作った料理に、私が鰹節を削ってふりかけて食べることからスタートしました。いつもは厳しい父親が“いい香りがするね”と話しかけてきたり関係も和んできて。鰹節のおかげかな(笑)。
そのうち鰹節のことをもっと知りたくなったんです。私は神奈川県で育ったのですが、ほかの地方なら鰹節削りが生活の身近にあるのかもしれないと、山梨県に向かいました。削り器片手に(笑)。そしてバスを降りたのは上野原市の西原(さいはら)でした」
西原は八王子から約50キロで昔ながらの原風景が広がる山間部の地域。村の人たちに「何してるの?」「何かの撮影?」と声をかけられる真依さん。
「長い間クラブ通いで遊んでいたので、私生活もどこへ行くのも10センチヒールをはいていたんです。スニーカーは持っていなくて(笑)。髪の色も全部ブリーチしてベージュ色でしたし、膝上のワンピース姿で削り器を持っていたからですね(笑)」
目立ったかいあって(?)地元の人たちが受け入れてくれた。
「私の削り方が下手だったので、村の人たちが削り器を取り出してきて“こうやって削るんだよ”って教えてくれたんです。田舎では鰹節って普通に暮らしにあったんですよ。
そこで学んだ話ですが、鰹節は昔は携帯食で、戦国時代は武士たちの戦場での食糧でした。鹿児島の知覧で聞いた話だと、一升瓶のお水とサツマイモと鰹節を持って逃げれば、1週間は生き延びることができると」
鰹節の作り方を知りたくなるのは自然な流れだった。それから3年半、南は宮古島から北は宮城県気仙沼市まで産地巡りの旅へ。
「最初に静岡の田子へ行ったんですが、生産者の職人さんが、自分の地域だけじゃなくて、鰹節の歴史や出汁を引くことが、なぜ日本で大事なのかという広い視野での話をしてくれたんです。産地によって鰹節に違いがあることがわかったので、3年半かけて全国かつお旅を続けました」
「作り手さんたちに代々続くネットワークで生計が成り立っている現場。私は新参者で信頼関係もないわけです。最初はただの“鰹節好きな人”としかみられなかった自分に対して悔しかったですね。それに職人さんから、もっと勉強してくださいってストレートに言われました。それでも辞めようって気持ちにはならなくて。ただ鰹節が好きで知りたくて、カツオと両想いになりたいって感じでした(笑)。
そしてある日、仕入れ先からの宛名が永松真依という個人名から『かつお食堂』に突然変わったんです。あのときはやっと鰹節の世界の一員として認められたんだって感涙でしたね」
ある人物の言葉で見つめ直した、鰹節との向き合い方
かつお旅を続ける一方、クラブやライブハウスで鰹節を削ってアピールする活動も。
「ギャル時代のつながりから、クラブやバー、ライブハウスでも削ったりして鰹節をアピールしていたんです。珍しいから注目されるんですよね。
かつお食堂を始める数年前、渋谷のクラブ『WOMB』でイベントに出たことがありました。スケボーの真ん中をくり抜いて、カンナを嵌(は)めたオリジナルの削り器を作ったんです。いろんな人に見てもらえるチャンスだと思い、派手な音楽をかけて、さらし1枚で踊りながら鰹節を削りました」
鰹節そのものの魅力を伝えることよりも、パフォーマンスを魅せるほうに意識が向いていたと振り返る。
「みんなが“楽しかった”と言ってくれた中、“残念だった。本当に鰹節好きなの? 削った鰹節があちこちに落ちちゃって、もっと工夫すれば無駄にならなかったんじゃないの”と、たった1人に言われたんです。それがショックで。鰹節が好きっていうのはただの思い込み? 珍しがられることが快感だったのかな? ってドーンと沈んでしばらく削れなくなってしまいました。
それから1か月ぶりに鰹節を削って作ったのが、年越しそばのつゆ。味にうるさい姉がおかわりをしてくれたのが嬉しくて、やっぱり私は鰹節が好きなんだ、おいしいと言ってもらえる喜びを大事にしたいなと感じることができた。それで、鰹節をおいしく食べてもらえる場所が欲しいと考えたんです。
そのころバーを始めたばかりの先輩に胸の内を相談したら、朝ごはんの店をやってみたらって言われて。バーの営業は夜だけだから、朝と昼にお店を貸してもらえることになりました」
鰹節ごはんの店を2017年にオープン。経営の難しさの一方で、新たな出会いや発見もあった。
「クラブで踊りながら鰹節を削ったときに“残念だった”と言った姉さんは、書道家なんです。この『かつお食堂』の看板を書いてもらいました。彼女には本来の食の大切さを気づかせてもらって今でも感謝しています。
ごはんとお味噌汁で1100円なんです。この値段の背景にはとてつもない苦労もあるので、その価値を感じてくださる方に来ていただけると嬉しいですね」
みんなで鰹節文化をつないでいきたい
「近ごろは中学生とか、若いお客様が増えてきました。私たち日本人は鰹節が好きなんだなってつくづく思います。鰹節は昔から継がれてきた食文化で日本の味を守ってきた価値ある存在。私たちの味覚DNAは立派だと実感しています」
「ミシュランガイド東京2022」「ミシュランガイド東京2023」の「ビブグルマン」に2年連続で掲載された。
「いまだに信じられない(笑)。でも嬉しかったのは、審査員のコメントに『日本の味を伝える、まさに日本のお母さんのような存在の店』とあって、日本の食の基本だと言ってくださったことです」
今年2月には初めてのエッセイ本『鰹節を手削りする 美味しい暮らし』(主婦と生活社)を著した真依さんだが、今後は海外進出も考えていて、鰹節の可能性をグローバルに拡大する予定だという。
「パリとイタリアのシェフが大勢お店に来てくれるので、ヨーロッパのシェフたちとコラボして、世界の視点で鰹節を見てみたいです。鰹節だけではなく、日本を離れていろんなインスピレーションを感じたいですね。
鰹節を手削りする暮らしの中で、おいしいと感じる文化をつないでいくことが私の目標。本が出ましたとか、賞をいただきましたとか、感謝することはいっぱいあります。でも暮らしにつなげていくという意味では、勝負はこれからだと思います。
いろんな人にお店に立ってもらって近々、夜営業もやろうと考えています。削り器をカウンターに置いておつまみに鰹節をかけたら楽しいですよね。私はワークショップをやったり、学校給食のために削りに行ったり、鰹節を広げる活動もやっていく予定です。
おじいちゃんとおばあちゃんの思いを受け継いで10年。鰹節への愛情でここまで続けられたという。
「友達に“お前にこんなガッツがあったか”なんて言われます。不思議と辞める考えが出てこなかったことかな。ひとえに“カツオ愛”です(笑)。
東京・月島の住吉神社に『鰹塚』があって、カツオの神様が眠ってるんですよ。毎年、挨拶に行っています。暮らしの中に少しずつ鰹節が広がっていくことを願って」
(取材・文/浦上優 撮影/山田智絵)