「教員にも残業代を!」と裁判を起こした田中まさおさん(仮名)。2023年3月に敗訴が決定したものの、「第2次訴訟にチャレンジする」と宣言しています。この連載では裁判のことだけでなく、田中さんが教員生活40年で培った「教育観」「子ども観」についても紹介します。子育てや教育のヒントが、きっと詰まっているはずです。
さて、みなさんは小学校に何を期待していますか? 勉強だけではなく、やっぱり人格的にも子どもたちを育ててほしいですよね。ところが田中さんは「今の学校では子どもたちの人格を育てるのがとても難しくなっている」と言います。いったい、どういうことでしょうか? 田中さんに聞きました。(聞き書き/牧内昇平)
※本文中に登場する子どもの名前はすべて仮名です。
学校=家庭。集団生活を学ぶには学校がベスト
数十年前と比べれば、家庭環境が複雑な子は増えていると思います。経済的に苦しかったり、大人が普段、家にいなかったりして、子どもの勉強や生活習慣に注意を払う余裕がない家庭は多いことでしょう。それはやむを得ません。
けれども私は悲観していません。学校があるからです。子どもたちは毎日8時間ほど学校にいます。寝ている時間をのぞけば、少なくとも家庭にいる時間と同じくらい学校で過ごしていることになります。親よりも小学校の担任のほうが、その子の顔を長い時間見ているのです。そういう意味で私は、小学校=家庭だと思っています。子どもをきちんと育てられないのを家庭のせいだけにしてはいけません。それは学校のせいでもあります。特に、集団の中で自分がどのように生活をすればよいのかを学ぶには学校がベスト。家庭では難しいです。
自分の悪いところを気づかせることが重要
どんな子にもよいところ、悪いところがある。経験上そう思います。後者でいえば、ウソをついたり、他の子に暴力をふるったり。けれども、その子の悪いところが見えてくるのは教員からすればチャンスです。悪いところをその子自身に気づかせる。自分で気づいたとき、人は変わることができます。
5年生にめぐみさんという子がいました。出会った当初は友達からいじめられていましたが、私が状況にすばやく気づき、幸いそのいじめは軽いもので終わっていました。すると、それを忘れたころ、そのめぐみさんがいじめを始めたのです。まさか、めぐみさんがいじめをするとは……。私は悲しくなりましたが、「いじめ」とはそういうところがあります。人の痛みをいちばんわかっているはずの本人が、自分がされたのと同じようなことを繰り返すのです。
私は諭すように言いました。「自分がされたのと同じことをしていると思うよ。相手のつらい気持ちがわかるのは、めぐみさんなんじゃないの?」。めぐみさんはとても悲しそうな顔をしました。私から叱られたことが悲しかったのではなく、自分の悪いところに気づいたから悲しくなったのだと思います。
こうして子どもたちは成長していくのです。このプロセスを何度も見てきました。もちろん、一度の話で子どもたちが変わるわけではありません。さまざまな繰り返しから成長していきます。
ルールが増えると子どもの特徴が見えなくなる
【1】子どもに悪いところを出させる、【2】自分の悪いところに気づかせる、【3】子どもに自分の意志で直させる。このように指導するのが教員の仕事です。そのためには普段から、子どもたちを自由に過ごさせなければいけません。自由に過ごさせることの反対が、ルールを作ることです。
誰だって「いい子」でいたいものです。「いい子」を演じようとする。「いい子」だと思われるために手っ取り早いのは、ルールを守ることです。だから子どもはルールを守ろうとします。学校はこうした子どもの気持ちを利用して、秩序を守ろうとし、ルールをたくさん作るんです。こうすれば確かに見かけ上は「いい子」しかいなくなります。しかし、本当にそれでいいのでしょうか?
ルールを作り、子どもたちに同じ行動をさせると、一人ひとりの違いが見えなくなります。例えば「休み時間は本を読みましょう」というルールを作るとします。みんなが静かに本を開きます。これでは個々のいいところも、直すべき悪いところも見えません。
私は、「休み時間は自由に遊んでいいよ」と言います。そうすると、子どもたちは好きなことをします。周りの子と話す。絵を描く。プロレスごっこをする。教室の中を走り回って追いかけっこをする。一人ひとりの子どもの特徴が見えてきます。
みんなに同じ行動をさせたほうが管理しやすい。だから多くの先生がルールを作ってしまう。クラス内に管理できない状況を作るのが嫌なんでしょうね。でも、私はあえて管理できない状況を積極的に作ります。
ちなみに、子どもたちの違いが見えてきたときに教員が何を見つけられるかもポイントです。乱暴な子を見つける? そんなのは当たり前です。例えば、読書です。休み時間に本を読むこと自体はいいことです。「昨日は外で遊んだけれど、今日は本を読みたい気分だから読書する」という子はまったく問題ありません。でも、休み時間に“読書しかできない”子がいたら、私は声をかけます。何かの援助が必要な可能性があるからです。遊べる友達がいないのかもしれない。いじめられているのかもしれない。いろいろな可能性が考えられます。「読書=いいこと」ではありません。このあたりが教育の難しいところです。子どもをよく見ておかなければいけません。
気になる昨今の「“さん”づけ」ルール
管理が難しい状況を積極的に作り出すのが私の教育のポイントです。友達とうまく交われない、倫華さんという子がいました。休み時間に多人数で遊んでいると必ずケンカになってしまう。相手の嫌がることを言ったり、自慢しちゃったりするんですよね。では、トラブルを避けるために特定の寛容な子たちと遊ばせるか。私は逆です。倫華さんを積極的に大きなグループに加わらせます。
そうするとケンカがたくさん起こるけれど、それは想定の範囲内。教員の私が然るべきタイミングできちんと介入して、「嫌がることを言うのはよくないよね」とか、「自慢ばっかりじゃ楽しくならないよ」とか、倫華さん自身が悪いところに気づくきっかけにします。小学校だからこそ、こういう教育ができます。この年齢の子どもたちであれば、何度ケンカをしても、その子が変われば周りの子たちはあたたかく迎えてくれますから。教師はずっと見守ってあげていればいいんです。
最近、子ども同士を一律に「さん」づけで呼び合うように指導する学校があります。私はあまり賛成できません。そんなことをしていたら子どもたちは「いい子」を演じ続けるだけです。ルールを守れるようにはなっても、本当の自分を出させない限り、その子の本当の成長は望めません。
親のような気持ちで愛情を注ぎたい
以前に私が勤めていた学校では「無言指導」が広がっていました。「廊下は黙って歩きなさい」「給食の配膳中は一切のおしゃべり禁止」(コロナ前から)。「教室を移動するときは黙って並び、黙って移動」「掃除の時間も無言で」。無言、無言、無言……。一部の教員は何やらハンドサインを考案して、「先生の手がグーになったら黙る」なんてやっていますよ。何だかイルカの調教みたいでしょう。若い教員を見ていると、「子どもを静かにさせるのが教員の仕事だと勘違いしていないか?」と感じてしまうこともあります。
私は無言指導に反対です。子どもたちにはなるべく自由に話してほしい。「話す」とは、「自分を表現する」ということです。本当の自分をどんどん表現してほしい。そのとき見えたいいところをほめ、悪いところを叱る。それが教育だと思います。そんな教育をじっくりと、少なくとも1年間かけてできるのが小学校のいいところです。その子の親のような気持ちになって、長い時間かけて愛情を注ぐのです。
「無言指導」に加え「教科担任制」にも反対
小学校にも「教科担任制」を導入しようという意見があります。中学や高校と同じように、算数は算数の先生が、国語は国語の先生が教えるという仕組みです。そのほうが質の高い授業ができるという意見がある。けれど、質の高い授業ができれば質の高い子が育っていくとは限りません。小学校では知識が高い子どもに育てることよりも、興味関心を持てる子どもを育てることに価値があります。
教科担任制がスタートすると、小学校教員の最大の強みが失われます。繰り返しになりますが、その強みとは、同じ子どもたちと長い時間を過ごせるということです。基本的にすべての教科を担任が教える「学級担任制」なので、その担任はクラスにいる約40人の子どもたちとずっと一緒に居られます。ずっと一緒だからこそ、その子の性格を知り、魅力を伸ばしたり悪いところを直したりできるのです。
教科担任制にしてみんなで子どもにかかわろうというのは、一見正しいように思えます。しかし、大勢の先生がちょっとずつかかわるよりも、一人の先生がじっくりかかわることのほうが、子どもにとって得るものが大きい。だからこそ本来、小学校には学級担任制が取り入れられているのです。
(取材・文/牧内昇平)
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