今、日本中の学校で「学力テスト」の嵐が吹き荒れています。2017年、文部科学省は「全国的な学力の状況を把握するため」として、このテストを始めました。都道府県別の順位が発表されるためか、教育委員会、学校の中には「学力テストの点数を上げよう」と張り切っているところがあるようです。テスト前になると宿題の量が増えたり、過去問を解かせて正答率を上げたり。そういう現象が起きています。
でも、この現象に「あれ?」と思う人も多いのではないでしょうか。ペーパーテストで本当の学力がわかるの? 本当の学力って、そもそもなんだろう? そんな疑問を田中まさおさんにぶつけてみました。(聞き書き/牧内昇平)
※本文中に登場する子どもの名前はすべて仮名です。
考える力、聞く力を身につけるために
私も勉強は重視しますよ。授業をするのが教員の仕事ですから。その子の生まれ持った「学習能力」を大きく変えることはできません。けれど、能力があまり高くない子でも「大学に行きたい」という気持ちがあれば、大学に行けるようにする。それが教員の役割だと思います。もちろん、誰もが大学に行く必要はありません。でも、大学に行きたいと思っているのに行けないのは悲しいじゃないですか。人生の選択肢はなるべく広げてあげたい。だから小学校のうちに、その子の「伸びしろ」を作ってあげたい。ツーランク、スリーランクではありません。あくまでワンランク上に行くための伸びしろです。
そのために何をするか。「日々の積み重ね」あるのみです。と言っても、「計算ドリルを毎日やらせて計算を早くする」とか、「漢字ドリルで漢字をマスターさせる」とか、そういうことではありません。
物事を深く考える力、人の話を聞いて自分の人生に生かす力。そういう力を子どもたちが小学校での経験の中で身につけられるように努力しています。中学でも高校でもなく、小学校の教員だからできることだと私は思っています。
東大に行った秀人さんの思い出
もちろん、教え子たちの中には東大に入った子もそれなりにいます。中でも印象に残っているのは、秀人さんかなあ。東大に入ったからではなく、小学校6年間のうち3年間も担任していたので印象深い子です。
両親ともにエリートの家庭ですが、初めて会ったときにお母さんがこう言いました。「うちの子は家で弟をいじめています」。教室ではそんな素振りはまったく見られなかったので、私は驚きました。それからですね。私が秀人さんに注目したのは。
秀人さんは善悪の判断がしっかりでき、人への思いやりもある子でした。人を優先する余裕もあり、自分の意見も言える。成績も優秀。でも、リーダーシップを発揮するタイプではありませんでした。優秀な秀人さんだからこそ、リーダーシップを発揮できる子になってほしい。将来的にはそういう力も必要だろうと思い、私は彼を児童会の中心人物にしました。そして、どんな風に成長するかを見守っていました。
児童会の役員になった当初は、とにかく人一倍、恥ずかしがりやでした。そんなとき、秀人さんが急に「林間学校に行かない」と言いだす“事件”がありました。「行く意味がない」というのが不参加の理由でした。親がそれを認めて簡単に欠席させたのには驚きました。
私はこのとき、6年生の修学旅行には必ず参加させたいと思いました。もちろん教員が参加を強制したらダメです。どうにかして1年間のあいだに林間学校へ行かなかったことを秀人さんに後悔させ、修学旅行には自分から「参加したい」と思うようにさせたかった。そこからは地道な取り組みです。ことあるごとに「あのときの林間学校は楽しかったよなあ」と、集団活動の楽しさをクラスでみんなに話しかけていきました。集団で楽しめるイベントもたくさん企画しました。その中で秀人さんは中心的な役割をすることが多かったので、何か感じるものがあってほしいと私は願っていました。
1年後、秀人さんは修学旅行に参加しました。後で「楽しかった」と話してくれましたよ。私の作戦が成功したのか、自然の成り行きだったのか、結果はどちらかわかりません。でも、そんなことはどうでもいいのです。5年生のときは林間学校に行かなかった子が、6年生の修学旅行には行った。リーダーシップを発揮する子に育っていった。卒業後、高校では合唱部の主将を務めるなど活躍していました。それで東大に。
林間学校への参加を決して強制しなかったけれども、そのことを踏まえて次のための手立てを考えていく。これが「子どもを育てる」というプロセスだと思います。中学や高校は教科によって教員が代わりますが、小学校は担任がずっと同じ子どもを見ている。だからこそできる「大切な教育」です。
学校は本来、“失敗するための場所”
「学校で何を教える必要がありますか?」と聞かれたら、私は「『教える』というよりも、たくさん『経験』させる必要があります」と答えます。その「経験」とは「成功」の経験ではなくて、「失敗」の経験です。失敗しなければ成長しません。失敗して初めて「次はどうしたらいいんだろう?」と考えるし、「わからないところを教えてください」と真剣にアドバイスを求めます。
まずは子どもたちに自由にやらせることです。自由に考え、自由に行動させる。でも、ただ自由にさせるだけではダメでしょう。ポイントは、失敗を自覚させること、失敗したときには教員が声をかけることです。「次はこうしたら?」とか、「こういうのは?」とか。声をかけて、それを元にして子どもたちにまた考えさせる。この繰り返しが大切なのではないでしょうか。
今の学校生活の中で、子どもたちが自由に行動できる場面がどのくらいあるでしょうか? そこが問題です。今の学校にはほとんど選択肢がありません。ルールばかりで、「このようにする」ということが前もって決まっている。これでは子どもたちが自分で考えてやってみる範囲が非常に狭められてしまいます。昔はもっと、子どもがどんな風にやってもよかったはずなんです。
失敗させない教育は間違っている
学校教育が子どもたちの選択肢を狭めてしまっています。典型例がいわゆる「まち探検」です。小学校の低学年の授業で、学校の近くの商店街を回ってお店の人にインタビューします。私だって多少は準備させますが、基本的には当日「はい、行ってらっしゃい。なんでも聞いてきてね」です。でも、今の学校は違う。探検に行く前の準備がたくさんあります。「お店に入るときは『失礼します』とあいさつしましょう」「店の人にはこういうことを聞きましょう」「店を出るときには『ありがとうございました』とお礼を言いましょう」。こんな感じで全部、準備します。極端な場合、教員が店の人の役をして、行く前に教室で事前練習をすることもあるようです。店の人も先生から頼まれて台本どおりに話したりして……。こうなったらもう、本番のまち探検は子どもたちにとって何の発見もない、つまらないものになってしまいます。どれだけ役割演技をできたかが勉強になってしまう。
子どもたちは、ゼロから出発だからワクワクするのです。何が起こるかわからない。それが探検です。教員がかかわるべきことは、子どもたちの安全についての配慮だけで十分です。もっと子どもの力を信じてほしい。
「子どもたちが失敗しないように」と考えるところに大きな間違いがあります。失礼な言葉づかいで店の人に叱られたら、それでいいのです。その後ちゃんとケアすれば子どもの傷にはなりません。実際に叱られて初めて、「丁寧なあいさつが大事だ」と子どもは身をもって知るのです。
絵を描くときの指導にも同じようなことが言えます。顔の絵を描かせる際、一般的な意味で「上手に」描く方法ってあるんですよ。よくない教員はそれをそのまま教えてしまう。「紙の大きさに対して顔はこれくらいの割合にして……」とか、「まず目と鼻から描いて…」とか。言われたとおりに描けば最初からなんとなくバランスが取れてしまう。でも、本来は自分で失敗を重ねるうちに、感覚的に描き方がわかってくるものでしょう? そのプロセスがなくなってしまうのは心配です。
「将来は博士になれるぞ!」とベタぼめ
1年生のクラスを担任しているとき、1桁のたし算を教えますよね。「2たす1って、いくつかな?」。子どもたちは机の上に両手を出して考えます。右手の人差し指と中指で「2」。左手の人差し指を立てて「1」。右から順に目で追って、「1、2、3」。それで「3です」と答える。これが、普通の子です。
でも、クラスの中には右手の「1、2」は省略できることに気づく子がいます。その子はいきなり「3だよ」と答える。「どうして?」と聞くと、「2のつぎは3だから」。「1、2」を省略して、最初から「2、3」と計算したんですね。
この答えを聞いたら私は大喜びです。「おー、すごいなあ。じゃあ、このやり方にはすずき方式と名前をつけちゃおう。みんな、次はすずき方式でやってみて!」。こんな風にほめれば、すずきさんも大喜びですし、他の子も次は自分の名前をつけてほしくて必死になって新しい計算方法を考えます。教員が最初から「2、3とやるんだよ」と教えたって意味がないんですよ。それを子どもたち自身がワクワクしながら見つけるから意味があるのです。
絵を描く授業も同じです。みんなで花の絵を描くとします。多くの1年生は花なら花の絵を描くだけです。その中で1人、まわりを茶色のクレヨンで塗る子がいた。私はすかさず「これ、何?」と聞きます。「じめん」。「お、地面か。すごいな」。私が大げさに驚くので、今度はみんな、次から次へと声が上がります。「くさをかいたよ」、「むしをかいたよ」。そうしたら自然と、季節が合っているかという話になります。「チューリップのきせつにはこんなくさがはえてるよ」。そう言う子がいたら、私は大絶賛です。「すごいなあ。将来きみは草博士になれるぞ!」。私が毎日やっているのはこういう授業です。
大事なのはテストの点でなく、人生に勝利すること
子どもが自分で考えて行動すると、多くの失敗をします。先ほどの授業でも、結果的にぐちゃぐちゃの絵が完成する子もいるでしょう。教員たちは大人なので、その失敗が予想できます。だから先回りして「失敗しない方法」を教えてしまう。そうすると見かけ上は「成功した絵」になる。でも、それは本当の成功体験ではない。繰り返しますが、手痛い失敗を経て自分で考え、再トライしてようやくつかみ取るのが本当の成功体験でしょう。
「失敗させない」=「考えさせない」です。「失敗は効率が悪い」という考え方が、子どもたちから本当の成功体験を奪っていきます。
昔の学校は成果をそれほど求めなかった。今の学校は常に成果を求めてしまっている。その最たる例が、全国学力テストでしょう。2022年は石川県がトップクラスだったらしいけれど、それは過去問をやりこんでいたからだとか言われています。そんなことをやっていても意味がありません。
学力テストの過去問ばかりやっている子と、私のクラスでいろいろな経験をしてきた子とを比べたら、どうなのか。テストの点は向こうのほうがいいかもしれません。でも確実に自分の人生に勝利できるのは、私のクラスの子だと思っています。
「人生に勝利する」というのは、「勝ち組負け組」などという話ではもちろんありません。私くらいの年齢になって人生を振り返ったとき、「豊かな人生だったなあ。いろいろ学べて、いろんな人に出会えて、よかったなあ」と心から思える。そういうことではないでしょうか。日本は本来、そういう「豊かさ」を目指すべきだと思います。今の学校教育はそれに逆行してしまっているけれども。
(取材・文/牧内昇平)
田中まさおさんの裁判を支える「田中まさお支援事務局」は’23年4月23日、第2次訴訟の原告の詳しい募集内容を公開しました。主なポイントは以下の4点です。
《原告の応募条件》
1. 個人的な利益ではなく、本訴訟の趣旨に賛同してくれる人
2. 給特法が適用される、公立学校の現役教員もしくは元教員の人
3. 長時間労働を理由とする国家賠償請求を行いたい人
4. 正式に原告となる場合、訴訟費用として20万円を負担できる人
田中まさお支援事務局によると、すでに教員を退職した人でも、時効(原則3年)が過ぎていなければ裁判を起こせます。また、裁判の費用については、クラウドファンディングなどで寄付を募るため、個人の負担は20万円に抑える、としています。7~8月の夏休み期間に説明会を開き、そこで弁護士や支援事務局のメンバーたちが面談を実施します。詳細は田中まさお支援事務局のTwitterアカウントなどへ。
◎田中まさお支援事務局公式Twitter→https://twitter.com/1214cfs
◎著者・牧内昇平Twitter→https://twitter.com/makiuchi_shohei