こどもが生まれればニュースとなり、お誕生日やひとり立ちも報道される動物・ジャイアントパンダ(以下、パンダ)。パンダの本場と言えば中国ですが、その中国人にさえ「日本人って何でそんなにパンダが好きなの?」と不思議がられるほど、日本人はパンダが大好き。東京にある恩賜上野動物園のふたごパンダの観覧は平日でも30分以上、休日には1時間以上の行列ができています。日本中のパンダを取材し、パンダライターを名乗る筆者が、そこまでして会いたいパンダのあれこれを語ります。
そもそもパンダって何?
パンダの祖先が誕生したのは約800万年前。中国雲南省の禄豊と元謀で化石が発見されていますが、最近では1200万年前のスペインの地層から化石が出土し、欧州起源説も浮上しています。現在は飼育下で約600頭、野生では1800頭程度が確認されており、国際自然保護連合(IUCN)が作成する、絶滅危惧種リスト(レッドリスト)では「危急種」に指定されています。
パンダの骨や内臓などの特徴は、クマ科にもアライグマ科にも似ています。ただどちらも決定的な一致がないため、過去にはジャイアントパンダ科として独立させるべきという意見もあったようです。しかし、現在ではDNA検査の結果などから、食肉目クマ科ジャイアントパンダ属に分類されています。
最初に“パンダ”だったのは……?
パンダという名前の語源は、ネパール語で竹を食べる者(ネガリャポンヤ)から来ています。でも、最初にパンダと呼ばれていたのは、実はレッサーパンダなのです。どちらも竹を食べていたことから近縁と思われ、小さい方に「レッサー」、大きい方に「ジャイアント」と付けられました。
ヨーロッパにレッサーパンダが紹介されたのは1825年。ジャイアントパンダはその40年ほど後の1869年ですから、レッサーパンダのほうがパンダ歴は長いんですね。まぁ、どちらもそんなに気にしてないでしょうけど。中国語でもレッサーパンダは「小熊猫(シャオシィォンマオ)」、ジャイアントパンダは「大熊猫(ダーシィォンマオ)」と呼ばれています。
日本生まれのパンダが、なぜ中国へ行くの?
2023年2月に4頭のパンダが中国へと渡ったことは、ファンを中心に大きな関心を呼び、ニュースなどでも大きく報道されました。そのため、みなさん記憶にも新しいのではないでしょうか。このときは別れを惜しみ、涙ぐむファンの姿も報道されました。「日本で生まれたのに、なぜ中国へ渡らなくてはならないの?」と思いますよね。それはパンダの未来のためなんです。
最初に説明したとおり、パンダはレッドリストで「危急種」に指定されています。個体数を増やすためには、まず繁殖をさせること。そのため各国へ貸し出すのも繁殖と研究が目的で、原則としてオスとメスのペアで貸し出されます。そして繁殖に成功すると、生まれたこどもも、2年をめどに中国へと送られます。これは近縁を避け、より個体数の多い場所で相性のよい相手と繁殖を目指すためです。
和歌山県にあるアドベンチャーワールドには、2023年2月まで永明(えいめい)というグレートファーザーがいました。彼は同パークで16頭の父親となり、そのこどもたちも中国で親となって、現在は23頭もの孫にひ孫までいます。彼のこどもたちは、その名前に同パークがある白浜の「浜」の字が付くことから、中国でも「浜家(バンファミリー)」と呼ばれる大家族となっているのです。永明は2022年、日中の友好関係に貢献したとして、大阪の中国総領事館から「中日友好特使」にも任命されています。
今いるパンダは、すべてレンタル
現在、日本にいるパンダはすべてレンタル。中国側に支払う費用は1頭につき年間95万ドル(約1億円)ほどです。こちらはパンダの保護費という名目のため、レンタルというと語弊があるかもしれませんが、報道ではわかりやすくこう表現されることが多いのです。
かつて中国はさまざまな国にパンダを贈与してきました。俗に言う「パンダ外交」です。誰もが心ひかれる珍獣・パンダを贈ることによって、相手国に中国によいイメージを持ってもらう、そこから政治的な利益を引き出していく、いわばイメージ戦略のようなものです。
しかし、1981年に中国がワシントン条約に加盟。ワシントン条約は、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約。絶滅危惧種だったパンダは保護対象となって国際取引が禁止となり、かつての贈与から繁殖と研究を目的とした貸与へと変わったのです。このときからパンダの保全のためとして、いわゆる“レンタル料”が発生するようになりました。
かつては日本国籍のパンダがいた
かつては日本にも、贈与でやってきた日本国籍のパンダがいました。1972年に上野動物園に来日して、空前のパンダブームを起こしたカンカンとランランです。彼らは日中国交正常化が実現した際に、中国人民から日本人民に対する贈り物としてやってきました。
公開初日のパンダ観覧の行列は、動物園から上野駅まで約2キロメートルにもおよび、2時間並んで見学50秒といわれるほど、人々は初めて見るパンダに熱狂しました。カンカンとランランはこどもをもうけることはなく、1979年9月にメスのランランが亡くなり、1980年1月にホァンホァンが来園するも、その年の6月にカンカンも亡くなってしまいました。
このあと、さらにオスのフェイフェイが来園し、1985年にはホァンホァンとの間に日本初のこどもが生まれます。しかし、このとき生まれたチュチュは、わずか43時間で亡くなってしまいました。その後は1986年6月におてんば娘のトントンが誕生。その後は弟のユウユウも生まれ、日本のパンダは順調に増えていました。
その後、ユウユウは交換という形で北京動物園へ。そのときにやってきたリンリンとトントンは人工授精に挑みますが、繁殖はかなわず。その後も繁殖への努力は続きました。2000年にトントンが亡くなると、リンリンは繁殖のため、メスが3頭いるメキシコ・チャプルテペック動物園と日本を3往復。さらに今度はチャプルテペック動物園から、セニョリータ・シュアンシュアンも来園しましたが、繁殖にはいたらず。
シュアンシュアンは、1975年に中国からメキシコに贈られたつがいのパンダ、迎迎(Ying Ying)と佩佩(Pe Pe)の最後の子孫。中国に所有権がないため、同じく中国に所有権がないリンリンとの繁殖を目指したのです。そして、2008年4月にリンリンがなくなると、日本国籍のパンダの飼育は途絶えてしまいました。
パンダに会いに行ってみよう
その後は数年、上野動物園にパンダがいない状態が続きました。リンリンが亡くなり、パンダ不在の状態になると、ピーク時の1974年には764万7440人を記録した入場者数も、2008年には60年ぶりに300万人を割ってしまいます。上野といえばパンダ。やはりパンダの人気は大きいことを感じさせる数字でした。その後、地元商店街や子どもたちの熱烈な要望を受け、2011年2月にリーリーとシンシンがやってきました。2012年7月には待望のこどもをもうけましたが、6日後に亡くなってしまいます。
しかし、2017年6月には「上野のカリスマ」と呼ばれるほどの人気を誇ったシャンシャンが生まれ、2021年6月には上野動物園初のふたご・シャオシャオとレイレイが誕生するなど、パンダ界もますます盛り上がっています。
日本でパンダがいる場所は、恩賜上野動物園(東京)、アドベンチャーワールド(和歌山県)、神戸市立王子動物園(兵庫県 ※現在は体調管理のため、観覧は中止)の3箇所。そんなに関心がない人でも、ひとめ会うと沼落ちしてしまうという魅力を持ったパンダ。ぜひ一度、生のパンダに会いに行ってみませんか。
(文/二木繁美)
《PROFILE》
二木繁美(にき・しげみ)
パンダライター。パンダがいない愛媛県出身で日本パンダ保護協会会員。パンダのうんこを嗅ぎ、パンダ団子を食べた、変態と呼ばれるほどのパンダ好き。アドベンチャーワールドのパンダ「明浜(めいひん)」と「優浜(ゆうひん)」の名付け親。「現代ビジネス」などでパンダコラム連載中。マニアックな写真と観点からパンダの魅力を紹介する著書『このパンダ、だぁ~れだ?』(講談社/講談社ビーシー)が発売中。