1986年、39歳でのデビューから現在まで「ひとりの生き方」をテーマに、多くの著書を発表してきたノンフィクション作家の松原惇子さん。松原さんが愛してやまない猫たちとの思い出と、猫から学んだあれこれをつづる連載エッセイです。
第8回→グレちゃんからマミーへの「おはよう」の日課は流血必至!? 同居母は「グレは猛獣だ!」と言うけれど
第9回
世の中にはいろいろな人がいるが、そんな中でもわたしは珍しい部類に入るだろう。何がって? わたしは他者も認める筋金入りの気の変わりやすい人だからだ。先日も家族から「えっ、また変わったの? コロコロとよく考えが変わるよね。ついていけないよ」と匙(さじ)を投げられたばかりだ。1年ぶりに会った友人から「シャンソン歌手になるって言っていたけど、ライブのときは知らせてね」と言われ驚く。「あら、わたし、そんなこと言っていたかしら? ごめん、ごめん、あれは1年前のわたし。今のわたしは移住しようと思っているのよ」
14年の間に17回引っ越した過去
自慢にならないが、気の変わり方のすさまじさは、引っ越し歴を知るとわかる。24歳で離婚してから38歳で自分のマンションを買うまでに、17回引っ越している。
離婚後、実家に戻る気はなく、仕事もしておらずお金がなかったので、6畳ひと間で風呂なし家賃1万円の殺人事件が起こりそうなアパートを借りる。そこから怒涛(どとう)の引っ越し人生が始まる。代々木上原の風呂なし8畳の賃貸マンションへ、友人が住んでいた中目黒の賃貸マンションへ、そのあとニットメーカーの仕事が順調で原宿、青山とグレードアップ。そして27歳のときすべてを捨ててアメリカ遊学。そして帰国してからも引っ越しは続いた。
引っ越すということは、仕事も生き方も変わったことになる。一般的にローンを組んで分譲マンションを買うときは一生住むつもりで買う。堅実な会社員から見たら、わたしは落ち着きのない変人だろう。そういえば、よく知り合いのオヤジから「結婚しろ」と馬鹿のひとつ覚えのように言われたものだわ。そんなオヤジは今や、妻に死なれて独居生活。
でも、人から何を言われてもわたしは平気だ。なぜなら、わたしは人と比べて生きていないからだ。生きる物差しが違う。そのことに最近になり気づいた。
それなのに、「この先どうしよう」と迷いながら実家の2階に暮らしているわたしは何なのか。情けないことだ。「どうしちゃったの? 母と同居なんて自立して生きてきたわたしに最もふさわしくない暮らし方ではないのか。ひとり暮らしこそ、わたしではないのか。何を躊躇(ちゅうちょ)しているのか。引っ越しするとグレちゃんがかわいそうとか言っているが、実は70代を目の前に老後の損得勘定が働きだしたからではないのか。ああ、なんて情けない人なのか……」
そんなぐじゅぐじゅした毎日を送っていたある日、近隣に団地があることを知り、実家を出ることを決断する。とりあえず賃貸でいい。それよりひとり暮らしに戻ることが先決だ。団地で猫は飼えないので、昼は団地で仕事をして、夕方、グレちゃんのいる本宅に帰って寝る。グレには気の毒だと思ったが、母から私のいない昼間は母のところで過ごしていると聞き、それも決断できた理由のひとつだ。でも、ちょっとがっかり。マミーしか見てないグレだと思っていたのに、母と一緒にいる? 複雑な心境のわたし。
引っ越した団地の敷地内には野良猫がいっぱい!
団地の敷地内は緑がいっぱいで自然を感じられる。散歩するともなく歩いていると、茶トラの猫に遭遇する。目を凝らして草むらを見るとまだいるではないか。わあ、猫探しだわ。しかも、猫にエサをあげている人もいるらしく警戒しながらも懐いている。
通学帰りの子供たちがしゃがんで猫をなでている。ああ、なんて幸せな光景だろうか。わたしが近づいて「この子、なんていう名前?」と触ろうとすると、「だめ、そっと触らないとだめよ」と注意されてしまった。猫の愛し方を知っている素晴らしい子供たちだ。
猫に会いたいばかりにここを通る人も多いようだ。そのたびに「猫エサ禁止」の看板がたつ。ここの野良猫たちは幸いにもエサに困っていないので暮らしていけるが、動物にとって食べ物がないほど、苦しいことはない。
それは人間にとっても同じことだ。仕事を失いアパートを追われ、行き場のない人が昨今多くなっている。イマジンの歌ではないが、想像してみて! それが、もし、自分だったら? それが友達だったら? そのとき食料を与えてくれる人がいたら? 最近の公園を見て悲しくなるのは、ホームレスが横になれないように、ベンチに仕切りを取り付けていることだ。人間に愛されている猫は幸せだ。そして猫を愛せる自分でよかった。
*第10回に続きます。