栃木県鹿沼市に本社を構える「ミンナのミカタぐるーぷ」の代表を務める兼子文晴氏(42)。「日本から障がいという言葉と概念をなくす」を理念に掲げ、就労支援事業所を専門とするお仕事マッチングサービス「ミンナのシゴト」や、就労継続支援A型事業所(※)を運営する「ミンナのミライ」などを運営し、障がいを持つ人たちの働く場所を拡大すべく日々、奔走している。
(※ 就労継続支援A型……一般就労が難しい障がいや難病のある方が、雇用契約を結んだ上で一定の支援がある職場で働くことができる福祉サービス)
そんな兼子氏は、自身が障がい者手帳を持つ障がい者社長でもある。障がいを持ちながら社長……。どんなことに苦労し、工夫しながら社長業をこなしているのか。インタビュー第1弾では、兼子氏が現在の仕事に就く前に経験した“光と闇”について話を聞いた。
オリンピック選手を輩出する国士館柔道部で鍛えた学生時代
兼子氏は東京都大田区生まれ。母親が教育熱心だったこともあり、毎日のように塾に通う小学校時代だった。
「私立の中学を受験したのですが、国士館中学校を選びました。見学したときの印象もよかったですし、当時は体格がよかったこともあって、国士舘が誇る日本一の柔道部に入れたら、なんかカッコいいなぁと思って。そんな気持ちで入学したのですが、同級生のほとんどは小学校から柔道をやっていて、“関東一!”みたいな称号を持っているような子ばかりで。だから一瞬ひるんで、パソコン部に入ったんです(笑)」
幼いころから柔道一筋の同級生とのレベルの違いを感じ、パソコン部に入部したものの、「やっぱり自分は柔道がやりたくて国士館に入ったのだ」と考え直し、柔道部に転部することにした。
さすがは柔道の強豪と謳(うた)われる国士館……というだけあって、周囲はそうそうたるメンバー。1学年下には鈴木桂治氏(2004年アテネオリンピック金メダリスト)が、1学年上には内柴正人氏(アテネオリンピック・北京オリンピック金メダリスト)がいたという。
「最初に鈴木桂治に体操を教えたのは自分なんですよ(笑)。今でも仲はいいです。とはいえ、スタートダッシュが違いますから、周囲と自分のレベルの差は歴然としていました。それでも中学、高校と柔道は頑張って続けましたね。高校では先生から勧められて寮に入り、より本格的に柔道に取り組むようになりました」
寮に入って門限がなくなったこともあり、朝から晩まで懸命に練習に取り組んだが、やはり周囲との格差を実感するばかり。せめて何か自分に残せることはないかと考えた末、たどりついたのが「マネージャーになる」という選択だった。
「当時は柔道部にマネージャーがいなかったんです。なので先生に“自分にやらせてください”と志願しました。マネージャーとはいえ、一緒に練習はするんです。それに加えて、試合があればビデオ撮影をするし、選手のケアもする。部員のためになることはなんでもしました。
高校3年のとき、春の大会で競合校の世田谷学園に負けてしまったんですが、夏の試合で取り返し、優勝することができたんです。そのときに後輩から、“兼子さんがいてくれたから勝てた。日本一のマネージャーだ!”と言ってもらえた感動が、今でも忘れられなくて。それからずっと、“この先も日本一になる”ということが自分の目標になっていますね」
この経験で得た、《誰かのために一生懸命動き、そして結果を出す》ということ、そして《日本一になる》という感動は、兼子氏の人生の原動力となった。残念ながら、けがにより柔道は高校でやめたものの、大学時代のアルバイトで自分が持つ、とある才能に気づいたという……「営業」の才能だ。
「大学時代はガソリンスタンドでアルバイトをしていたのですが、その店はオイル交換や洗車などでどれだけ売り上げを出したか、社員もバイトも関係なくランキング形式で貼り出され、評価されたんです。そして、その売り上げ次第で時給が変わる仕組みでした。自分はお客さんと話すのが好きで売り上げをどんどん伸ばしていき、最初は700円だった時給が、最終的には1300円まで上がったんです! そのときに、“自分は営業に向いているのかもしれない”と思いましたね」
建材大手で売り上げトップを記録、転職先でも営業本部長に
そんな才能の開花をきっかけに、営業職を中心として就職活動を行った兼子氏。さらに、高校時代からの夢である《日本一になりたい》という思いも重なり、建材業の大手の会社に営業職として入社した。
「営業の仕事がしたかったことと、日本でいちばん大きな建材企業だったこともあり、希望がかなった形です。新入社員のときには、仙台への配属希望を出しました。同期は東京を希望する人が多かったんですけど、自分の目標は、地方を回っていろんな経験をしてから東京の本社に戻ってくることでした」
希望は通り、1年目は仙台配属に。2年目からはどんどん頭角を現し、ほかの営業マンが月に平均4000万円ほど売り上げるところ、兼子氏は約8000万円を売り上げ、成績は常に1位。営業マンとして華々しい活躍をとげていた。
順風満帆に思えた会社員生活だったが、3年半であっさりやめてしまう。
「当時、深夜2時まで働いて朝5時には出勤する日々を送っていました。すでに結婚をしていて、幼い子どもがいたのですが、妻は毎日たった1人で子育てをしていたのがつらかったようで。今後について妻と話し合っている中、栃木でベニヤ板のカット業を営む義父から、“うちで働くのはどうか”と誘われたんです。同業者でもありますし、妻の実家で働くことで家庭も大事にできる。そう考え、転職しました」
兼子氏は妻の実家でも営業の力を発揮し、入社して約1年で、年商10億円だった家業を13億にまで押し上げ、すぐに営業本部長の肩書をもらえるまでになった。「このままいけば、義父のあとを継いで社長になれる、社長になってベニヤ板カット業で日本一を目指そう……!」と、未来への希望は膨らんだという。
会社を追い出され、うつに……自殺したいと思い詰める日々
しかし突如、そんな未来に暗雲が立ち込める。「木材業界はカッコよくないから、あとは継ぎたくない」と言っていた妻の弟(義父にとっての長男)が突然、帰ってきたのだ。東京で服飾関連の仕事をしていたもののトラブルを起こし、父親のもとへ戻ってきたのだという。
「義父は、やはり実の息子が可愛かったのか、それとも地方独特の家督制度的な影響なのか……跡取りには妻の弟を推すようになりました。どうやら当時、義父が心酔していた占い師が、“長男を跡取りにしろ”と言った影響もあったようです。
そして私はいきなり、営業本部長から倉庫番にされてしまったのです。それまでお客さんと話してガンガン仕事をとってきていたのに、フォークリフトでベニヤ板を上げたり下ろしたりするだけの日々になって。自分が何のためにこの会社にいるのか、どうすればいいのか、わからなくなってしまいました」
社長、そして日本一になるという夢を絶たれた兼子氏は酒びたりになり、妻にも当たり散らすようになった。「おまえの弟のせいで」、「おまえの父親のせいで……」そう妻に怒鳴ることしかできなかった。状況は悪化し、仕事もやめるしかなくなった。
客観的に見れば義父が理不尽だし、ましてや会社に貢献した兼子氏を占い師の言葉に左右されて追い出すようなことは、明らかに不当だとわかる。しかし、あまりに追い詰められた兼子氏は、「自分がいなくなるしかない」「自分さえ死ねばいい」「仕事もないし、妻と子どもも、自分がいなくなることで義父のもとで幸せに暮らせる」とすら思うようになっていた。新卒時代から仙台、栃木と地元ではない場所で働いていており、義父の会社では同僚や仕事相手との交流を制限されていたこともあり、相談できる相手はいなかった。
「毎日のように自殺をすることばかり考えていたのですが、ある日ふと、義理の両親のことばかり考えていたことに気づいたんです。自分の親のことをここ数年、考えていなかった。国士館に通わせてくれて、金メダルを取るような選手と一緒に練習をするようなすごい経験をさせてくれた自分の親に対し、恩返しができていない……それに気づいたときに、“今ここで死ぬわけにはいかないのではないか”と、ハッとしたんです」
兼子氏はすがる思いで心療内科を予約。心療内科は初診の予約を取るのに3~4か月待つことも多い。しかし、奇跡的に3週間後の予約が取れる病院を見つけ、受診。うつ病と診断された。
「すぐに投薬治療を開始しました。それまでは布団からまったく起き上がれなかったのに、2週間くらいしたら、徐々に動けるようになっていったんです」
命を断つ直前で、なんとか心身の回復に向けて動き出した兼子氏。その後、兼子氏は今後の人生をガラリと変える“運命の出会い”を果たすことになる──。インタビュー第2弾では、うつ病を患った兼子氏が“第2の人生”を歩み出してからの悲喜こもごもをたっぷり語ってもらう。
(取材・文/松本果歩)
《INFORMATION》
兼子文晴(かねこ・ふみはる) ◎1979年生まれ、東京都大田区出身。国士舘中・高で柔道部に所属。国士舘大卒業後、建材大手の会社に入社。木材卸・加工販売会社を経て2013年、就労継続支援A型事業所を運営する「ミンナのミライ」を設立。その後、B型事業所を営む「ミンナのナカマ」も立ち上げ、2018年5月には「ミンナのシゴト」をスタート。現在はこれらの事業を束ねる「ミンナのミカタぐるーぷ」の代表を勤め、障がい者に寄り添った就労支援を行っている。