2023年2月より、新生『B.B.WAVES』のメンバーオーディションを開催し、話題となっている『沖縄アクターズスクール』。安室奈美恵やDA PUMP、MAX、三浦大知、知念里奈など数々のスターを生み出した名門校です。その創始者であるマキノ正幸さんの娘であり、振付師の牧野アンナさん(51)へのインタビュー最終章! 歴史あるアクターズスクールのチーフインストラクターとして駆け抜け、退職後も新たな道を切り開いてきた牧野さん。人生で二度味わったという大きな挫折、そこから開けた第2の道、そして再始動した沖縄アクターズスクールへの熱い思いに迫ります!
(インタビュー記事第1弾→牧野アンナがスーパーモンキーズでの活動で痛感した“絶対に敵わない相手”との圧倒的な差と、デビューから約2か月で沖縄に帰ったワケ / 第2弾→AKB48・SKE48の振付師、牧野アンナが明かす「アイドルのメンタルケアの難しさ」「努力した子が報われるわけではない世界」)
「できるか、できないかでは物事を判断しない」父・マキノ正幸の教えとは
──牧野さんは、お父様であるマキノ正幸さん(以下、正幸さん)が開校した沖縄アクターズスクール(以下、アクターズ)に小学校のころ入学して修業を積み、一度目はソロで、二度目は『SUPER MONKEYS』(スーパーモンキーズ。安室奈美恵やMAXも在籍したダンスアイドルユニット。以下、モンキーズ)としてデビュー。モンキーズを脱退したあとはアクターズに戻り、’02年に退職するまでチーフインストラクターとして活躍されました。正幸さんからの影響を受けることも多かったと思いますが、彼から教わったことで、教訓にしていることはありますか?
「何かをやるかどうか考えるときに、できるか、できないかでは考えない。そして、やると決めたら後ろは振り返らず、徹底的に成功する方法を考えてやり抜くことですね」
──具体的に、きっかけとなる出来事があったのですか。
「16歳のときに、父がアクターズでミュージカルをやるって言い出したんですよ。それで、いきなり私に台本を書けって言うんです(苦笑)。そのころには指導者側の仕事も始めてはいたものの、歌とダンスしかやってきていないので、台本って、どう書けばよいのかもわからない状態。だから“できません”って答えたら、父から“何もやっていないのに、できないって言うな。俺はできるか、できないかは聞いていない。お前が死ぬ気で考えて作った作品がよくなかったときは、お前にやらせた俺の責任なんだ。それに、お前が断って俺がやったら、お前はもう必要ないぞ”って言われたんです」
──なかなかの無茶ぶりですね(笑)。ミュージカルは無事に上演できたのですか?
「はい、必死にいろいろな台本を読み漁ったり、周囲からのアドバイスを受けたりしながら作りあげて、なんとか形になりました。
でも、これだけでは終わらなくて(笑)。次は、歌やダンスの発表会を全て企画しろと言われたんです。呆然としながらも、まず会場のキャパシティやチケットの売り上げを考え、電話帳を開いて、会場候補の市民会館に電話するところから始めました。高校生の女の子が右も左もわからない状態で駆け回っていたので、周りも親切に教えてくれたんですよ。開催には消防署の許可がいるとか、音響と照明についてのノウハウも、このときイチから学びました。
結果、無事に本番を終えられました。わからなかったら周囲に聞けば教えてもらえることも多いし、やるって決めて動き出せばなんとかなるのだと、身をもって知りましたね。そこからは、“こんなこと私にできるかな”とは考えないようになりましたし、やるかどうかで悩んだときには、苦しい道を選ぶようにしています。父にも言われていましたが、“厳しいほうを選択したほうが、たとえそれが失敗に終わっても必ず何か残る”と信じて、特に10代、20代のころは、何があっても断らずに挑戦するようにしていました」
デビューで夢敗れ、背中を追ってきたはずの父とも敵対。大きすぎる2つの挫折
──牧野さんにとって特につらかった思い出や挫折はありますか?
「大きい挫折は2回。最初は’87年、一度目のアイドルデビューをしたあとです。売れないまま沖縄に戻ることになって、いかに自分が思い上がっていたかにも気づき、本当につらかった。背中を丸めて沖縄に帰ってからは、父の意向もあり、裏方の仕事をメインにやっていました。アクターズの子たちが出ているテレビ番組にも出してもらえなくて、すごく悔しくて、つらくて、アクターズの建物を出たら涙がこぼれそうになるのをずっと我慢していました。家のドアを開けた瞬間に、“ウワーッ!”って声を出して泣くような日々でしたね」
──まだ10代のアンナさんにとって、重圧が大きかったのですね。
「今となっては、あの経験があったから成長できたと思っていますが、当時は苦しかったですね。2回目は、’02年にアクターズを辞める前。とてつもなく大きな挫折を味わいました。’00年以降、アクターズの勢いが少しずつ縮小に向かっていたころ、父といくつかのプロダクションとの間にいざこざがあったりして……。そんな中で、なかなかデビューできない生徒たちが、どんどん辞めていってしまったんです」
──窮地に立たされ始めたのですね。
「さらに、どうにかして現状を打破しようとした父が、力の入れどころを芸能から教育にシフトし始めて新たにフリースクールを作り、全国から不登校の子たちが集まり出したんです。それ自体はいいのですが、父がフリースクールにばかり顔を出すようになったので、私は残されたアクターズと生徒たちを抱えて、“芸能界デビューの道は閉ざされかけているのに、どうしたらいいのか……”と毎日悩んでいました」
──何か策を打ったのですか?
「とにかく今いる生徒たちに徹底的に実力をつけて、たとえ芸能界に入れなくても、ここに多くの人々が観にきてくれるくらいすごいものを発信すればいいんだと考えたんです。それでレッスンを少しハードにしつつ、ダンスや歌がそこまで得意でない子たちには、音響や照明などの技術を教えて、ほかにも衣装やヘアメイクのチームを作り、振付も生徒たちに考案させ、完全に身内で作り上げるショーを開催することにしました。
そして、父に頼み込んで観に来てもらったら、 “俺はこんなの観ていられない”って帰ろうとしたんです。これまで外部のプロたちの力も借りてやっていたステージを、生徒のみで作っていると、説明はしてあったんですが……。追いかけていったら、“アクターズをこんな低レベルにしたのは誰の責任だ”って怒りだした。そうしたら、社長が“トップの責任です”と」
──緊迫感のある場面ですね……。
「父がすぐ、“そうかアンナ、お前の責任だな”って。トップはマキノ正幸なんじゃないのかって思いましたが(笑)。その場にいたインストラクターたちが何も言えなくて黙っていたら、今度は父が、“お前たちもアンナ側の人間なんだな。俺とアンナ、どっちについていくんだ”って言い出して。急に、私がアクターズスクールを乗っとるみたいな構造になってしまったんです」
地獄のような日々から救ってくれた、ダウン症のレッスン生たちとの出会い
──まるでドラマのお家騒動みたいですが、当事者からしたら、とんでもなく大変ですよね。
「そこからが地獄。続けて父が、“俺はもうアクターズを辞める”と出ていってしまって、もうみんなパニック。翌日、父と私たちでなんとか話し合いの場を設けました。父は途中でみんなに、私の悪いところを言ってみろと突きつけたんです。最初は黙っていた仲間たちですが、父からのプレッシャーが大きすぎて、最終的にはワーッとひどい言葉が飛び交う状況に……」
──想像するだけでもつらいですが、どのようにやり過ごしたのですか。
「もう、ここは私が悪者になるのが正解だって思ったので、土下座をして謝りましたね。“アクターズスクールを乗っ取ろうとしていたんです、すみません”って。でも、実際はアクターズの状況は逐一、父に報告していましたし、もちろん乗っ取るつもりもなかった。だから、これはきっとスタッフたちをまとめるために父が用意した茶番で、私は今だけ嫌われ役を演じよう、みたいなつもりだったんです。
その騒動は、“これからは俺がみんなの面倒をちゃんとみるから”という感じで終わりました。父からは2人になったあとに、“悪かったな”って言われると思ったんですけれど、違ったんです。“お前、(アクターズを)乗っ取ろうとしていたのか”って改めて言うんですよ(笑)。もう言葉が出なくて」
──……。
「その騒動の翌日から、私と口をきいた人は裏切り者みたいな雰囲気になって、やりづらく感じていました。そうしたら、アクターズ横浜校の生徒が減っていて大変だから、立て直しに出向するように言われて、沖縄を離れることになるんです」
──新天地で仕切り直したのですね。
「異動になったとき、“もしかしたら父の背中ばかり見ていたのがいけなかったのかも”と思い、横浜校の生徒たちには、“私もマキノ正幸校長も、ときには間違った言動をするかもしれない。だから、最終的に何がよくて何が悪いかは自分で判断できたほうがいいよ”という話をしていたんです。ある日、父が横浜校に指導に来たとき、生徒のひとりが、父の言葉に疑問を抱いたのか、“できません”と言ったんです。その瞬間、父が“お前はクビだ”って怒って出て行ってしまった。
責任を感じましたし、これまではマキノ正幸の教えが100%正しいと思っていたからやってこられたけれど、もう違う。きっとアクターズも父も変わってきちゃったんだな、と悟ったんです。そうしたら、もうここにはいられないって思ったのと同時に、アクターズの世界しか知らないで生きてきた私に何ができるんだろうって葛藤しました。辞めたいのに辞められない日々が続きましたね」
──次の一歩に踏み出す前の、もがいている時期ですね。
「しばらくレッスンのとき以外は部屋から一歩も出ない生活をしていて、部屋の中でずっと小田和正さんの楽曲を聴いていたんです。小田さんの曲を聴いていないと涙が止まらないっていう……もう鬱(うつ)に入った状態ですよね。そんなときに、ダウン症の子どもたちのダンスレッスンを受け持つことになったのです」
──『ザ・ノンフィクション』(※)にも取り上げられていましたね。(※ フジテレビ系ドキュメンタリー番組。牧野さんは、番組内で18年にわたって取り上げられたダウン症児ダンサーの指導にもあたっている)
「そうなんです。最初は、日本ダウン症協会から依頼を受けて、レッスンとショーの演出をすることになりました。ほかの場では、生徒たちにも“アクターズスクールの牧野アンナ先生”っていう意識があるのか、みんな私の前ではある程度ピシッとしますが、ダウン症児には肩書きが一切、通用しないんです。指導し始めても、誰も話を聞いてくれない。だから“彼らに話を聞いてもらうためには、徹底的に信用してもらう必要がある。まずはダンスを楽しいって思ってもらわなきゃいけない”と思って、すごく一生懸命になっている自分がいて」
──新鮮な経験だったのですね。
「“1回踊るから見ていてね”と言って曲を流したら、みんな一斉に立ち上がって踊り出した。もちろん、私のことなんて見ていないんです。それまでは、“アクターズのチーフインストラクター”っていう肩書きが頭にちらついて、“こうあるべきだ”って自分を縛っていた。でも彼らと一緒に踊っていると、“誰もあなたのことなんて気にしていないよ”って言われている気がして、精神的に解放されたんですよね。“こんなに自由に踊ったことはないかも! “こうじゃなきゃ”って思わなくていいのは何年ぶりだろう”みたいな」
──本心から楽しいと思えたのですね。
「レッスン期間が終わりに近づいたときに、ママさんたちから寄せ書きをもらいました。“この子たちは普通のダンススクールでは受け入れてもらえない。ダンスが大好きでも、この企画が終了したらダンスができなくなってしまう”と書かれていた。“子どもたちのことを認めて、ほめてあげる教え方に感動しました”とも言われて、逆に“私を受け入れてくれる場所があるんだ! ”って感激したんです。ダンススクールの先生になれる人はいっぱいいるけれど、この子たちの先生になる人がいないんだったら、私がやればいいんだと。その瞬間、“これを仕事にしたい”って思ってアクターズを辞め、『LOVE JUNX』(注:アンナさんが代表を務めるダウン症児を対象としたダンススクール)を設立しました。 ’02年、30歳のときです」
──ダンススクールを始めてからは、どのような日々でしたか。
「初めて自分でやりたいと思ってスタートさせたスクールなので、本当に楽しくて! 以前は、アクターズを辞めるなら、同時に指導者も辞めようと思っていたんです。でもダウン症の子たちと出会ったことで、新たな居場所を子どもたちに作ってもらいました。アクターズ沖縄校での、みんなの前で土下座をさせられたあの地獄みたいな出来事がなければ、絶対にアクターズを辞めていなかった。いや、辞められなかったんです。あのままインストラクターを続けていなかったおかげで、自分を嫌いにならずにすみました」
絶縁状態だった父と再会し、アクターズを再始動。大切にしていきたい方針は?
──正幸さんとの関係はその後、いかがですか。
「アクターズを辞めてから、父とはずっと絶縁状態だったんですよ。でも、’21年に腹違いの妹から“お父さんの体調が悪い”って連絡があったんです。危険な状態と聞いたので、兄とふたりで会いに行きました」
──病床に伏していた正幸さんの姿を見て、どう感じましたか。
「父は私の顔を見た瞬間に、“仲直りがしたくて連絡しようと思っていた”って言うんです。こっちは“今度は絶対に言い返してやる! ”くらいの戦闘態勢で行ったのに、“コロナで生徒もいなくなって、仕事も全部ストップした。アクターズはもう終わっているコンテンツなんだ”って言う弱った父の姿を見たら、つらかったです」
──強気なお父さんを身近でずっと見てきた牧野さんにとっては、受け入れがたい現実ですよね。
「ただ、アクターズの思い出話をすると、父の顔色がどんどんよくなっていったんです。かつて交流のあった芸能事務所のライジングプロダクションとも関係を修復をして、“また一緒にプロジェクトをやりましょう”っていう流れになって」
──それがきっかけで昨年秋、「沖縄アクターズスクール大復活祭〜本土復帰50周年記念〜」(卒業生のMAX、DA PUMP、島袋寛子、三浦大知らが出演)が開催されたのですね。
「そうなんです。アクターズの卒業生を集めたイベントを沖縄で開催すれば、“アクターズってすごかったよね! ”って、思い出してもらえるのではと思ったんです。父と仲直りしたことで、またオフィシャルにみんなで集まって最高の思い出作りができた。ショーの準備や練習が、もう楽しくて楽しくて! 本番がきて終わっちゃうのが寂しいねって、みんなで話していたんです。結果、本番も大成功で、周囲からの希望もあり、父に“私がアクターズを再始動させる”って言いにいきました」
──開催中の新生『B.B.WAVES』メンバーオーディションではどんなことに力を入れていきたいですか?
「うちは“スター育成システム”に徹底的にこだわっていこうと思っています。だからオーディションスタイルにして、受かった子から授業料は取らないというかたちにしました。まだ何人とるかも決めていませんが、基本的には書類で落とさず、実際に会ってから合否を出すのがアクターズの方針です。
それと、例えばほかのダンススクールにすごく才能がある子がいる場合には推薦してもらい、うちでレッスンをして、デビューが決まったらそのスクールの生徒として紹介するという流れも考えています。県内みんなで沖縄の才能を育てて世に送り出す、みたいなことができたらなと」
──ダンスの基礎がない子が入ってきても、うまくなったりするものなのでしょうか。
「アクターズって、基本的に経験値ゼロの子しか入ってこなかったんです」
──そうなのですか!? テレビで見かける出身者のみなさんは、ダンスも歌もずば抜けていたように思います。
「ダンスの経験がない子たちに、“曲を流すので自由に踊ってください”っていうところからスタートするんです。でも、ほとんどの子ができないんですね。絶対に“恥ずかしい”が最初に来るんです。回を重ねるうちに、ガッチガチに固まっている殻が1枚ずつはがれていって、“どうやったらいいんだろう”って考え始める。いったん自分が踊れないということを真正面から受け止めたうえで、周囲を見ながら、自分の場合はどう構成し、どう魅せればいいのか練っていって、ある日突然、花開いたように踊り出すんです。ダンスって、心を開かないと絶対に動けないんですよ」
──テクニックよりも、感性やセンスのほうを生かすのですね。
「この前、アクターズの子たちと話してたら、みんなレッスンで初めて自分が踊り出した日のこと覚えていたんです。最初は何にもできなくて悔しい思いをして、それから自分で考えて行動することで、踊れるようになる。歌とダンスっていうのは、自分で作り出すもの。自分から動き出すものなんです。そこまでの過程で、それぞれの性格や才能も見えてくるし、それがその後の個性を生かす指導にもつながっていきます」
──沖縄出身の方たちは、歌も踊りも本物志向に感じます。何かほかの地域と違うと思いますか?
「ハーフやクォーターの子がたくさんいるっていうのもありますね。(安室)奈美恵もそうだし、ISSAも。あと、リズム感のいい子が多い。沖縄って“カチャーシー文化”(カチャーシー:三味線の音色に合わせ、両手を頭上に上げて空気をかき回すようにして踊る、沖縄県民がお祝いやお祭りの場で踊る踊り)なので、裏拍子なんです。でも日本の文化って頭打ち(表拍子)なんですよ。そこを沖縄の子は、合いの手の入れ方などを含めアフタービート(裏拍子)でうまく取れるので、そこが大きく違いますね」
MAX・NANAの根性はピカイチ! 父には「今は感謝の気持ちが大きいです」
──スターに必要な要素は何だと思いますか?
「スターになるには、ルックスや声に加えて、パフォーマンスの勘や、リズム感が必要だとは思いますが、結局のところ根性が重要なんですよ」
──根性……ですか?
「そう。みんな、とてつもなく負けず嫌いなんです。それでいて、歌やダンスが本当に好き。そうでないと努力できないですしね。(安室)奈美恵も、三浦大知もそう。でも、どんなにいい才能を持っていても、合う曲に巡り合えないとか、運が悪くて売れなかった子もいっぱいいるので、やっぱり俗にいう“持っている(ツイている)”みたいな要素もあると思いますね」
──語弊があるかもしれないですが、いわゆる努力の部分で評価されているタイプもいるのですか。
「私が見てきた中では、MAXは、根性の人。特にメンバーのNANAは、アクターズ歴代の中で、いちばん根性のある子なんです。マキノ正幸にも認められて、実は、14歳でアクターズの事務局スタッフにも抜擢されているんですよ」
──それはどういう経緯だったのですか?
「父は、才能がある子たちは学校には行かなくてよいという方針だったんです。エンタメ業界の最前線で戦おうとしているのに、つまらない授業を何時間も座って聞いていたら、感性と才能が鈍感になってしまうと。それを聞いて、NANAはすぐさま学校を辞めてきてしまったんです」
──すごい行動力ですね。
「そうしたら、NANAの母親がアクターズに“なんてことを言うんですか”って飛んできたけれど、父は“この子くらいの根性があれば、デビューできる。公務員と同じくらいの給料を払って、うちの事務局で雇う”って言ったんですよ。父は学校へは行かなくてもいいけれど、勉強はきちんとしておかないと、スターになったときに正しい判断をしたり、自分の言葉で自分の考えを伝えられない。だから世の中のことは知っておくべきという考え方だったので、毎日新聞を読ませ、電話対応で言葉遣いを学ばせ、重要な資料の作成や外部交渉もさせるなど、経験を積ませていました」
──アイドルのころの牧野さんは、現在の指導者としての姿を想像されていましたか?
「いや~、想像していないですね。指導や裏方の作業は当時、イヤイヤやっていたので。アイドルを辞めてチーフインストラクターを任されてからも、アクターズを辞めるまでは、“本当に自分がやりたいことは何だろう”って思いながら、父が決めたことをやってきた感じです。でも父からは、“とにかく目の前のことを一生懸命やりなさい。そうしたら道は開けてくる。その積み重ねが大事だ”って教わってきたので、それはずっと続けていますね」
──正幸さんは非常に厳しかったと思いますが、牧野さんを信じていろいろなことを任せるのには、勇気がいったと思います。きっと、信頼関係があったからこそだと思うのですが……。
「うちの父は、面倒くさがりで自分じゃ何もできない人なんですよ(笑)。だからこそ、何でもやらせてもらったっていうのもあるんです。でも、自分には娘がいますが、父が私にしたように徹底して大事なことを任せられるかと言ったら、難しいなと思います。つらい経験も多かったですが、結局、自分の中にあるすべては父に作り上げてもらった。そう思うと、今は感謝の気持ちが大きいです」
──正幸さんは父であり、ライバルでもあるように感じます。
「父は今82歳なんですけれど、私の活動にすごくヤキモチを焼くんですよ。周囲にも、“今のアンナとアクターズがあるのは、全部俺のおかげなんですよ”って話したり(笑)。“娘が後を継ぐってなったら、アンナが頑張っているんですよ〜! って伝えるのが普通じゃないの”って言っています」
はたから見るとすごくつらそうな経験でも、ポジティブに語るアンナさん。お父さんとの関係性も修復して何よりです。アイドルデビューからインストラクター、振付師、スクール経営とキャリアを重ね、いつまでも挑戦し続ける姿に、元気づけられる人も多いことでしょう。
(取材・文/池守りぜね)
【PROFILE】
牧野アンナ(まきの・あんな) ◎振付師。ダウン症のある方のためのエンタテインメントスクール『LOVE JUNX』代表。1971年12月4日生まれ。日本映画の父と呼ばれたマキノ省三を曽祖父に持ち、祖父は映画監督マキノ雅弘、祖母は女優の轟夕起子、親族に長門裕之や津川雅彦という芸能一家に生まれる。父・マキノ正幸の仕事の都合で沖縄に引っ越し、沖縄のアメリカンスクールで学生時代を過ごす。父が創設した『沖縄アクターズスクール』に入学し、『SUPER MONKEY’S』としてデビューしたのち脱退。以降、チーフインストラクターとして生徒の指導にあたる。’02年、日本ダウン症協会のイベントをきっかけに退職し、同年『LOVE JUNX』を開業。また、AKB48グループの振付を多数担当し、公演もプロデュース。’22年からは、沖縄アクターズスクールの再始動に向け尽力している。
◎沖縄アクターズスクール公式Instagram→https://www.instagram.com/actors_school1983/
◎沖縄アクターズスクール公式HP→https://o-actors.com/
【INFORMATION】
沖縄アクターズスクール『NEW B.B.WABESオーディション』開催中!
沖縄アクターズスクールの生徒でありながらCDデビューし、レギュラー番組を持ち、CM出演、漫画化なども果たしたB.B.WAVESを令和に再結成!
沖縄在住の小4〜高3の男女であれば、歌・ダンスの経験は不問。締切は2023年3月12日。