2011年の原発事故によって「全町避難」を強いられてきた福島県双葉町で、 ’22年8月30日、町の中心部の避難指示が解除された。町内に住めるようになるのは事故以来、はじめてだ。住民が戻ってくるタイミングに合わせて、この町に新しい看板をつくった人がいる。かつて町のシンボルだった原子力広報看板、〈原子力明るい未来のエネルギー〉の標語を考えた大沼勇治さん(46)だ。新しい看板に込めた思いを聞いた。
(大沼さんの活動、原発やふるさとへの思いを追った過去記事、第1弾:〈原子力明るい未来のエネルギー〉標語の考案者が語る「恥ずかしい記憶」の意味、第2弾:原発PR標語の考案者が「12年目のリスタート」、故郷・福島とウクライナにはせる“強い思い”)
原発を推進した町の歴史を忘れさせない
避難指示解除前日の8月29日、双葉町には青空が広がっていた。晩夏の日射しが新品の看板の上に照りつけている。
〈エクセレント・ユーティー 入居者募集中〉
’08年、大沼さんは双葉町内に、主に原発で働く人たち向けのオール電化アパート「エクセレント・ユーティー」を建てた。アパート経営の事業を展開しようと意気込んでいた矢先、原発事故が起きた。「全町避難」が命じられ、町から人の姿はなくなった。大沼さんは妻と愛知県に避難し、子どもが生まれてからは茨城県古河市の戸建て住宅に移り住んだ。せっかく立てた新築アパートは、事故から11年間、“人が住めない家”になっていた。
大沼さんは感慨深そうに看板を見上げる。
「ようやく新たな入居者を募ることができるようになりました。ここは町の入り口にあたるエリアですから、このアパートの部屋に灯りがつくと、だいぶイメージが違うはずです。“ああ、人が戻ってきたな”という感じになると思いますよ」
一方で、道行く人の目につくのは、看板の中にもうひとつ、〈かつて立っていた看板〉の写真が印刷されていることだろう。
〈原子力明るい未来のエネルギー〉
事故が起こるまで町のシンボルだった原子力広報看板は、JR双葉駅から町役場のほうへと続く町のメーンストリートの上に、アーチ状に設置されていた。ちょうど大沼さんが建てたアパートのすぐそばだった。
看板の標語は大沼さんが小学6年生のころに考えた。子どもだったとはいえ、町の原子力推進政策に加担してしまったことを、大沼さんは今も悔やんでいる。
この看板は’16年春までに、老朽化を理由に撤去された。大沼さんは看板の維持・存続を強く求めたが、聞き入れられなかった。
「かつての看板の写真を入れたのは、原発を推進した町の歴史を忘れさせないためです。本物の看板は撤去されましたが、なかったことにさせるわけにはいきません。そこでせめて、この場所に自分の力で『看板のあった風景』を残しておきたいと思いました。最初は、アパートの壁に巨大な看板を描いてもらおうと考えていたのですが、不動産会社に、“それじゃあ入居者がいなくなります”と止められてしまいました(笑)」
撤去された看板は今どこにあるのか。〈原子力明るい未来のエネルギー〉と書かれたアクリル製の文字板は、双葉町内にある「東日本大震災・原子力災害伝承館」の倉庫に眠っている。本物が展示されている時期もあったが、同館は昨年夏からレプリカ展示に切り替えられた。
「文字板だけが看板ではない」というのが大沼さんの考えだ。「文字板」を取りつけていた巨大な「下地」(鉄板)や、看板を空に掲げていた「支柱」も“看板”の一部だという。
看板を撤去するとき、町はこれらの物を切断・廃棄しようとした。大沼さんが猛反対し、とりあえず町内で保存することになった。では「下地」や「支柱」はいま、どこにあるのか? 実は、町内の旧役場庁舎の空き地に置かれている。もの言わぬ看板たちは人の目に触れず、生い茂る雑草に覆われていた。
大沼さんがつくった新しい看板は、こうした“原発事故を見えなくする流れ”に抵抗する営みのひとつなのだろう。
看板から消えた、大沼さんの詩
筆者はここまで、大沼さんが新しい看板を「つくった」と書いてきた。これは、あまり正確ではない。実際に看板を立てたのは’08年、アパートを建てた年だ。そのときは純粋に、アパートの宣伝のための看板だった。
原発事故の3年後、大沼さんはこの看板の表面の一部を貼り替えている。だから今回は「2回目の貼り替え」ということになる。
1回目の貼り替えでも、大沼さんは原子力広報看板の写真を使った。ただし、その写真には、大沼さんの明確なメッセージが示されていた。大沼さんが原子力広報看板の前に立ち、手製のプラカードを掲げて、〈明るい未来〉の〈明るい〉の字を〈破滅〉に置き換えている。自作の詩も記されていた。
双葉の悲しい青空よ
かつて町は原発と共に
「明るい」未来を信じた
少年の頃の僕へ
その未来は「明るい」を「破滅」に
ああ、原発事故さえ無ければ
時と共に朽ちて行くこの町
時代に捨てられていくようだ
震災前の記憶 双葉に来ると蘇る 懐かしい
いつか子供と見上げる双葉の青空よ
その空は明るい青空に
震災3年 大沼勇治
今回なぜ、これらのメッセージをなくしたのか。
「事故から3年後の時点では、誰かに伝えたいというよりも、自分の中の気持ちを吐き出したいという気持ちが強かったんです。今は、少し違います。住民の帰還がはじまり、この場所を普段から人が通るようになりますから。私の気持ちばかり押しつけてしまっても、気持ちが『ひとり歩き』してしまいます。この看板が意味するものは、みなさんに考えてもらえればいいと思っています」
大沼さんの中には、「双葉のありのままの姿を見てほしい」という気持ちが芽ばえてきている。看板の写真を指し示しながら、大沼さんは話す。
「写真のここにあるタクシー会社もなくなりました。こっちのお店も、もうないです。私が育った町の原風景が変わろうとしています。原発事故が起こるまでの私の人生がつまった風景です。それを残したい、みんなに見てほしい、という思いがあります」
大沼さんは事故以来100回以上、双葉町を訪れて、町が変わっていく姿を撮影している。今春にアパートのまわりの除染を行った際は、作業員が除染する姿を映像に残していた。そうするのは、「生まれ育った故郷が変わっていく姿を記録にとどめておきたい」という気持ちがあるからだ。川で釣りをした話。家の前の空き地でメンコして遊んだ話……。子どものころの話をするとき、その大きな目はひときわ輝く。
今の大沼さんを「ゴリゴリの反原発派」だと思ったら間違いだ。もちろん、その信念が変わることはないだろうが、彼を衝き動かしているのは、別のものではないだろうか。それは彼の言葉を借りれば、「ふるさと愛」である。
複雑な思いを抱えたままの「Re Start」
大沼さんはアパートを眺めながら話す。
「ふるさと愛、なんですよね。自分の育った故郷を捨てられない、ということです。事故後、アパートを解体するか、除染するかを迫られました。私は除染して使い続けるほうを選びました。解体するほうが楽かもしれません。でもそれでは、双葉とのつながりが切れてしまいます」
「解体するほうが楽」、というのは本当だろう。除染費用は国が負担するが、その後の費用は自己負担になる。建物の修繕・リフォームだけで数百万円になる。除染だって簡単ではない。環境省が委託した業者による除染が終わった後、大沼さんがアパート周辺の放射線量を測ると、排水溝の近くで放射線量が高いことが分かった。業者や環境省に伝えたら、「路面のアスファルトをはがし、除染をし直します。ただし、除染後のアスファルト敷設は自己負担になります」。さらに100万円ほどの出費になりそうだ。
新品の看板のいちばん上には、大きく「Re Start」と書いてある。しかし、それは簡単なことではない。
「正直言って、やってみないとわかりません。入居者が入らなければ、リフォームなどの費用による借金を返すのは私です。何の保証もありませんよ。でも、この建物を解体して、土地を雑草でぼうぼうにしたら、双葉への気持ちが切れてしまいます。先ほども言ったように、『ふるさと愛』がありますから。故郷をぶん投げる(捨てる)わけにはいかないんです」
アパートだけでなく、大沼さんが事故前に住んでいた自宅も、8月30日に住むことができるようになったエリアの中だ。しかし大沼さんは、家族で帰還しようとは考えていない。
住めるようになったのは、町の約1割にすぎない。放射線量が高い地域もあり、ましてや廃炉のメドが立たない原発が町の中にあり、学校などの施設も未整備だ。原発事故後に生まれた子どもたちとここで暮らすことはできない、と大沼さんは考えている。
自分たちは、住めない。でも、故郷にはなるべく人が戻ってきてほしい。原発の廃炉作業をする人や、町の行政職員など、双葉に住んでくれる人にはきちんとしたアパートを提供したい。複雑な思いを抱えたまま、大沼さんの「Re Start」ははじまる。少なくとも年内にはアパートのリフォームを終わらせ、賃貸事業を再開する予定だ。
(取材・文/牧内昇平)