都内でも屈指のおしゃれな大人の街として知られる代官山。その一角にある「MATSUNOSUKE N.Y.」は、いつも「おいしいものが好き」な女性たちでにぎわっている。
ここは「Cafe & Pantry 松之助」京都本店の東京店。アメリカ・ニューイングランド地方の伝統的焼き菓子を継承する平野顕子さんがオーナーパティシエだ。店の代名詞ともなっているアップルパイは、スライスしたリンゴを生のままパイ生地で包んで焼いている。甘くてほんのり酸っぱいリンゴの味がそのまま生かされた、素朴ながらも極上の味わい。平野さんもまた、「酸いも甘いもかみわけた」女性である。それだけ波乱に満ちた人生だったのだ。
60代後半で、ひとまわり以上年下のウクライナ系アメリカ人の夫・イーゴさんと再婚して5年。現在はニューヨークと日本を行ったり来たりしながら生活している。都内の自宅にうかがうと、イーゴさんが、はにかんだような笑顔であいさつしてくれた。ニューヨークでは夫の両親と同居を続け、夫婦は釣りをしたりスキーに行ったりと趣味も謳歌(おうか)しながら、にぎやかな家庭生活を送っている。
45歳から人生がガラっと変わった
平野さんは京都に100年以上続く能装束の織元の家に生まれた。箱入り娘として大事に育てられたが、アメリカ留学の準備をしていたときに父が40代で急逝。
23歳のときに縁談がまとまって、歯科医師の夫と結婚。福井県の小さな港町に住むこととなった。
「母に“馬には乗ってみよ、人には添うてみよ”と言われて、そんなものかなと(笑)。小さな町だから、どこの家に来たお嫁さんか、すぐにわかってしまう。だから目立たないように暮らしていました。娘と息子が生まれて、子育てに精いっぱいの日々でしたね。けっこう教育ママをしていたんですよ」
ところが子どもが成長するにつれ、夫との関係に違和感を覚えるようになっていった。娘は意志の強いたくましい女性に育っていったが、息子は雑草のようには育っていなかったのだ。
「夫が地元の学校の校医をしていたんですが、娘はそれを嫌がって越境し、ほかの区域の高校に入学。その一方、息子はまったく気にしていなかった。しかし、息子は京都大学の文学部に行って中国文学を学びたい、という気持ちがあるにもかかわらず、夫は大反対。“どうやって食べていくんだ”と言われて、息子も考えを翻しました。
そのとき娘が、“あなたの人生、自分の足で歩いて自分の手でつかまないでどうするの”と言ったんです。結局、息子は“自信がない”と浪人を決意して文系から理系に転向。私はそのとき、“それならどうしてもっと早く『理系に行け』と言わなかったのか”と夫に聞いたんです。そうしたら、“僕はそんなことは言ってない”とか、ごまかしていましたね。“もう、この人とは一緒にいられないかな”と思った理由のひとつです」
とはいえ、夫は歯科医として患者に尽くす立派な医師であることは明白で、彼女は常に尊敬していた。ワンマンなところも多々あったが、「この人に嫁いだのも私の人生だから」と自分を納得させてきたのだ。だが、子どもたちが2人とも大学生になると、彼女のなかで何かが終わった。
「夫とふたりきりで生きていくのは難しい。心身ともにしんどい。自分が元気でいるほうが大事なのではないかと思ったんです」
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一念発起して渡米、見つけた新たな夢
45歳にして離婚を決めた。夫にしたら、青天の霹靂(へきれき)だったようだ。それでも妻の希望を受け入れ、しかも、離婚後も生活費を振り込んでくれたという。だが、いつまでもそれに頼るわけにはいかない。
「まずは離婚してすぐ、東京の大学に通う娘のところに転がり込んだんです。でも私、働いたことがないわけですよ。ビラ配りのアルバイトをしていたら、娘に“世間知らずもいいとこ。お母さん、バカね”とピシャリと言われました。確かに、“こんなことをしていても将来には役立たない”と背筋が伸びました。何より、子どもたちの世話にはなりたくない。何か見つけなければと焦っているとき思い出したのが、“アメリカに留学する”というかつての夢でした」
そこからは猪突猛進。英語の専門学校に通い、猛勉強をして47歳のときにコネチカット州立大学・ファインアート学部に入学した。寮にも入ったのだが、学校の配慮で大学院生用の個室で過ごすことができたのはラッキーだった、と笑う。
「でもね、私、そもそもひとり暮らしも初めてなんですよ。それまで家族がいた40代後半の日本の女性が、たったひとりで勉強漬けになりました。つらいとは思わなかったし、ここで何かを得なければ日本には帰れないと思っていたので必死だった。ただ、何かあったら自分の身は自分で守らないといけない、そのためにはきちんと自己主張しなければいけない、ということも学びました」
というのも、ある日、同じ寮に暮らす中国の女子留学生が突然、亡くなったのだ。お腹が痛くてキャンパス内の診療所で診てもらったが、病状をうまく説明できなかったのか、たいしたことはないと診断された。ところが、彼女はそのまま寮の自室で瀕死(ひんし)となり、翌日、病院に運ばれたものの命を落とした。この一件は、平野さんの「ひとりきりの厳しい現実を生きていく」覚悟へとつながっていった。そして、孤独とも正面から向き合う決意を固めたのだ。
留学中、彼女はずっと、帰国したらどうやって食べていこうかと考えていたという。
「バイリンガルの人とは差がありすぎるから、英語を使って仕事をするのは無理だと思いました。“卒業できても、何をしたらいいんだろう”と、親しくなった英文学の教授に話したら、“日本でアメリカンケーキはまだ知られていないでしょ? ニューイングランド地方の伝統ケーキを習ったら?”って。それだ、とピンときたんです。私は特にケーキ作りが好きでも得意でもなかったのに……」
だが、そこからみっちりとケーキ修業を始め、納得いくまで突き詰めるのが平野さんという人物の生き方だ。3人の先生に三者三様のレッスンを受け、特に、3番目に出会ったシャロル・ジーン先生からは基礎を徹底的に学んだ。そして彼女はディプロマ(修了証書)を授与されて帰国した。
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「漠然と、ニューイングランド地方のアメリカンケーキ作りの教室を開こうと思ったんです。場所は京都にある実家の、母のキッチン。でも、突然、住宅街で教室をやっても人は来ませんよね(笑)」
たまたま家の前を通りかかった京都新聞の記者が取材して、紙面で紹介してくれた。けっこう大きな記事だったため、あっという間に生徒が200人近くになった。
「食べた人たちがみんなおいしいと言ってくれる。ある日、生徒さんに“ケーキ屋さん、開かはったら?”と言われて、“そうだ、教室兼お店を持とう”と決心しました」
数年前、ワンマンな夫に仕えるのも私の人生だと思っていた平野さんが、数年で「自分の意志だけで人生を切り開いていく女性」へと変身した。それは実は変身ではなく、彼女の中に眠っていた何かが目覚めただけなのかもしれない。
(取材・文/亀山早苗)
【※平野さんが自身のお店を出してからの奮闘劇をつづった後編は、1/22(土)の12時に公開予定です】