皇居・御所のリビングには、愛子内親王殿下の名前が付けられたピンクの薔薇(ばら)の花『プリンセス・アイコ』が満開で香りを放っていたという。
昨年、20歳をお迎えになった愛子さまを祝って届けられたものだというが、愛子さまも「この花のように愛くるしい」と、宮内庁職員は口をそろえる。実際に愛子さまは職員の部屋にふらりと来られて、お話しになる機会が多いのだという。
今年3月の単独会見での愛子さまは、気品ある清楚なたたずまいの中、実に堂々となさってもいらした。愛子さまはご自分の性格について、「友人や周りの方から“穏やか”、“無邪気”といわれることが比較的多い」と述べられていた。
長所は「どこでも寝られるところ」とユーモラスに語り、短所は「少しマイペースな部分があるところ」とお話しになった。
愛子さまは、はにかみながら笑顔で語ったが、天皇皇后両陛下はどのような子育てをなさってこられたのだろうか。
報道陣の前では笑顔が少なかった幼少期
さかのぼること16年前(2006年)。学習院幼稚園に入園なさった愛子さまは、人見知りをなさるご性格で、校門のそばに待機していた記者やカメラマンがいることを確認して、見回されるが、報道陣の前では笑顔が少なかった。当時、雅子さまがご病気で公務を欠席なさることが多かったことから、メディアは批判的だった。愛子さまにとって、大切なお母さまの悲しみや不安を幼いながらに感じ取られていたのかもしれない。
雅子さまに手を握られていた愛子さまは、報道陣を前に戸惑われているような顔をなさっていた。
そんな愛子さまのご様子を見て、雅子さまと同じご病気なのではないかという、心ない報道や両陛下の躾(しつけ)に疑問を呈する記事もあった。
実際には、報道陣のいないところで愛子さまは笑顔をよく見せられていた。お世話をする職員も愛子さまのかわいらしさとユーモアを語る人はいた。部屋からいつも流れていた童謡に合わせて歌うことや踊りが好きで、元気いっぱいだったという。
母親の雅子さまにとって、愛子さままで批判されるのは、ご自分のことよりつらいはずだ。ある時期、愛子さまにご挨拶をするよう促されたというが、
「だってカメラの音がパチパチって、いーっぱい音がして、“愛子さま”って名前を呼ばれると驚いちゃうから」と、愛子さまがはっきりといわれたという。
やり取りを聞かれていた陛下が、
「ご自分も幼少期には外ではあまり笑わなかったということや、大人になって笑わないことはないということを笑顔で話されたそうです」(ご学友)
以来、躾は大切だが、子どもの気持ちも尊重したいということから、無理強いすることはなさらなくなったといわれる。
生後2か月には、初めて静養先に向かわれる新幹線の駅構内で、待ち受ける人々に向かって自然とお手ふりをなさっていたことから、ご成長とともに状況に応じた感情表現ができるようになった証でもあった。
公園遊びやリトミック体操で育まれたもの
両陛下は、特別な環境で育つ愛子さまの情緒を育てるため、なるべく一般の子どもたちと関わらせようとお考えになっていた。
愛子さまを乳母車に乗せて、当時のお住まいだった東宮御所近くの公園まで何度も足を運ばれたのは、愛子さまに外の風景を見せたかったことと、公園に集まる子どもたちと一緒に遊ばせたかったからだ。
愛子さまは、お話しをする時には構えてしまわれるが、身体を動かしながらコミュニケートすることは得意だった。雅子さまは愛子さまの得意なことを生かされようと、リトミック体操を始められた。東京・渋谷の『こどもの城』にある教室に通われて、ご自宅にもお友だちを招かれた。
一般の子どもたちと公園で遊んだり、リトミック体操などといった集団行動を行うことで、子ども同士で並んで順番を待つことを覚えられたり、道具の貸し借りやお友達がお休みしていることを気にかけたりする社会性も育まれた。
さらに幼少期に身体をたくさん動かすことは必要で、健康になるだけでなく、大人になっても生活にスポーツを取り入れやすいと思っていたのかもしれない。
体力作りでは、陛下も幼少期に天皇皇后両陛下(現・上皇上皇后)から赤坂御用地内の木に登られることを学ばれた。愛子さまが木登りをなさっている写真が公開された時には、上皇夫妻からの教育を受け継いでいらっしゃることがうかがえたものだ。
その後、愛子さまは学校の運動会では足が速いことで知られ、3歳から始められたスキーもプロ並みだという。唯一、苦手といわれたのが水泳で、学校の授業でビート板を使って短い距離を泳がれていた。練習を重ね、初等科6年生の夏に沼津で行われた臨海学校では500メートルを泳がれた。学習院初等科の卒業文集では『大きな力を与えてくれた沼津の海』というタイトルで作文を書かれている。
女子中等科2年生の夏には、さらに練習を重ねて3キロメートルの遠泳に挑戦。見事に泳ぎきられた。
コロナ禍の現在では、オンライン授業の合間に両陛下や職員たちとバドミントンやバレーボール、テニス、ジョギングなどマルチにスポーツを楽しまれている。
人の気持ちに寄り添えるように
陛下は2005年のお誕生日の会見で、当時3歳だった愛子さまの養育方針について、
「どのような立場に将来なるにせよ、一人の人間として立派に育ってほしいと願っております」と質問に答えられた。
この会見で、陛下は米国の家庭教育学者、ドロシー・ロー・ノルトの『子ども』という詩を紹介した。
《友情を知る 子どもは 親切をおぼえる》
《安心を経験した 子どもは 信頼をおぼえる》
《可愛がられ 抱きしめられた子こどもは 世界中の愛情を感じとることをおぼえる》
陛下はこの詩について、
「子どもの成長過程でとても大切な要素を見事に表現していると思います」と感銘を受けられたと語った。
ある宮内庁関係者のひとりも「まだ幼い愛子さまには、帝王教育などではなく、人の気持ちに寄り添えるよう情緒豊かなお子さまになってほしいと願われているのではないでしょうか」と話す。
そのためにもご両親は多くの絵本の中から想像力をつけてほしいと願われた。愛子さまは寝る前に読み聞かせを雅子さまによくせがまれたそうだが、ご自分で読まれるのも大好きで、ついには早く読まれたり、覚えられてしまったり、おふたりで輪唱のように別々の絵本を読みながら楽しまれたという。絵本の中に出てくる言葉をきっかけに「ことばあそび」をなさるようになったという。
七五調の遊びでは、家族でお題を出し合って声にするなどして笑いが絶えなかったそうだ。
当時の東宮大夫の発表では、5歳の愛子さまは「昔話の紙芝居で覚えた『拙者(せっしゃ)』や『わらわ』といった古い言葉を使って、遊ばれています」というものだった。
遊びながら興味を持たせる
両陛下は、日本の伝統的な遊びも欠かさずに教えられてきた。愛子さまは、かるたや神経衰弱から始まり、百人一首にいたっては、後に学習院女子中等科の大会では優勝されている。正月には、餅つきやたこ揚げ、羽根突き、書道などをなさるのも恒例だった。
書道は専門の先生もいたが、雅子さまも教えられた。雅子さまの祖母の江頭壽々子さんは達筆で、孫たちに書道を教えたといわれている。愛子さまの字は大きく、雅子さまが幼い頃に書いた字と似ているそうだ。半紙いっぱいに書かれているのが印象的だった。
天皇ご一家はスポーツ観戦もお好きだ。幼い頃からオリンピック中継をよくご覧になったという。陛下は幼児期から夕方になると相撲中継を見るのを欠かさなかったといわれる。
昭和天皇も相撲好きといわれた。今では陛下と愛子さまがおふたりでご覧になることが多く、愛子さまはマニアとして知られている。4歳にして、力士の四股名だけでなくフルネームや番付、出身地まで覚えられていた。
愛子さまは「愛子山」という四股名で陛下や職員たちと相撲を取ったそうだ。陛下も外国人力士の母国を訪問される前後には、地図でその国の位置を示されて、どのような国なのか写真をお見せになって話しをなさるという。
両陛下は、愛子さまの幼少期には遊びながら興味を持たせ、学ぶ楽しさを教えられてきた。
不規則登校を乗り越えた初等科時代
学習院初等科に通うようになってから報道陣の前で笑顔を見せられるようになった。だが乱暴な男子生徒の振る舞いから、2年生を機に不規則登校になってしまう。「学校に行きたくても行けない」という愛子さまに雅子さまの付き添い登校が始まった。療養中の雅子さまが付き添いをなさるということに批判が出ることは承知の上だったが、「今できることの最善策」として愛子さまを守り抜いた。
専門家の中には「不登校から学校に行けなくなってしまうと、社会に出た時も集団行動が取りにくくなる」という見方がある。雅子さまのご体調が良くない日には、陛下だったり、職員だったり、愛犬の「由莉」も一緒だった時もあった。
愛子さまの学校生活に光が差したのは、6年生の時。「学校で歴史の授業が始まり、修学旅行で奈良・平城宮跡などを訪問されましたが、このころから皇族というお立場を改めてお感じになられたようにお見受けします。殿下(現・陛下)とお話しをなさる機会も増えて、とても意気揚々となさっていました」(元東宮職)
陛下は歴史研究家でもあるが、学校の教えがいちばん大切であるというお考えがあった。幼い頃から高いレベルの体験を積むというよりも、年齢にあった知識の習得を重視されていたように思う。愛子さまが授業でご関心が高まり、質問をしてきたタイミングで丁寧にお答えになっていたという。
愛子さまは放送委員として校内放送を担当なさっていたが、その年の伊勢神宮二十年遷宮について紹介をすることになり、放送する原稿を事前に時間を掛けて書き上げられるなど準備なさったという。
「原稿が詳しいだけでなく文章が上手だったので、先生たちも驚いていました。愛子さまも伊勢神宮のことが紹介できて、実にうれしそうだったと言われています」(宮内庁担当記者)
2014年の中学生の時には、初めて伊勢神宮をご参拝。雅子さまにとっても20年ぶりのことだった。愛子さまは中等科のセーラー服姿で両陛下に続いて砂利道をゆっくりと進み、玉串を捧げて拝礼された。
中学生活最後の夏休みは、神武天皇陵の参拝、登山などお忙しい毎日だった。両陛下と愛子さまの外出が増えればニュース映像がテレビから流れるようにもなる。
陛下が愛子さまの大きな成長をお感じになったエピソード
15歳になられた愛子さまは少しほっそりとされたことで、周囲から痩せてきれいになったと注目された。このことがきっかけで過激なダイエットに励み、摂食障害寸前まで体重がグンと減ってしまわれた。目まいや胃腸障害などが続き、学校を欠席なさるようになった。
その間、雅子さまは愛子さまのお身体を心配されて、病院の検査にも付き添われた。もともと、中学生の後半は給食部に入られるなど召し上がることが大好きだったというが、この時は喉越しのいい食べ物や水分しか受けつけなくなってしまっていた。一般的に食べないことで心臓が弱くなったり、脳に酸素がいかなくなるケースもあることから、雅子さまは、なんとか愛子さまに健康を取り戻させようと、食べさせるのに必死だったという。
そんな愛子さまのイメージを払拭したのが、中学の卒業文集に寄せた『世界の平和を願って』という作文だった。修学旅行で訪れた広島の原爆ドームや平和記念資料館を見学。作文では《「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくもの》とし、
《そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から願っている》と綴られた。
陛下は、愛子さまの大きな成長をお感じになった時のエピソードの一つとして、この作文の内容を会見の中であげられている。
多くの方の支えや御協力があってこそ
高等科では、愛子さまの体調も落ち着きを取り戻されて、2年生でイギリスに短期留学へ。学校の特別プログラムを優先されて、私的な外国旅行という選択はなさらなかったのは、愛子さまのご意思と、両陛下が高校生活の楽しい思い出を残すためにも勧められたのではないかといわれる。両陛下は、皇族として務めを続けていくためには、学校生活の楽しい思い出はとても重要なもので、何かが起こった時にも乗り切れるきっかけになるとお考えになっているそうだ。
約3週間の「イートン校」サマースクールの思い出も愛子さまにとって間違いなくよいご経験となったといわれた。
今年初めて参加された「歌会始の儀」のお題「窓」では、当時の気持ちを次のように詠まれた。
《英国の学び舎に立つ時迎へ開かれそむる世界への窓》
20歳の記者会見では、これまでの人生を振り返られて、
「今までの、あっという間のようで長くも感じられる充実した月日を振り返りますと、これまでのあらゆる経験は、多くの方の支えや御協力があってこそ成し得たものであると身をもって感じております」と感謝の言葉を口にされた。その言葉は未来へとつながっているようだった。
雅子さまはお世継ぎ問題やご病気が理解されず、陛下もまた公務の先が見えないなどと宮内庁内から批判されて、孤独をお感じになったからこそ愛子さまを守るためにも、あふれるほどの愛情を注がれて寄り添われてきた。
陛下は「家族は個の集合体」と述べられたことがある。ご家族で助け合いながらも尊重と寛容を忘れない。そんな家族の在り方は、私たちにともすれば忘れがちな何かを教えてくれている。
(取材・文/友納尚子)