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生き方

80年代の伝説ブランド『セーラーズ』が突然閉店したワケは? W介護に奔走する三浦静加社長が語る「今後の展望」

SNSでの感想
ご自宅の仕事場にて、笑顔を見せる三浦さん。「すごく忙しいけれど、苦ではないです」と明るく語る姿に背中を押された 撮影/渡邉智裕
目次
  • 突然の閉店に迷いなし。アメリカまで娘の治療に
  • 介護に追われる生活でも明るく過ごせる理由
  • デザインから発送、SNS発信まですべてひとり

 80年代のアイドルやカルチャーが再ブームの兆しを見せるなか、再び脚光を浴びているのが伝説のアパレルブランド『SAILORS(セーラーズ)』。おニャン子クラブや海外セレブたちがこぞって愛用し、店には連日、行列ができるほどの大人気ぶりでしたが、現在は実店舗を持たずにオンラインのショッピングサイト『BASE(ベイス)』で新商品を販売しています。

 渋谷の店舗で販売されていたセーラーズですが、2000年に突如の閉店。社長の三浦静加さん(69)に、セーラーズを休業し表舞台から消えた理由や、今後の展望をお聞きしました。

(第1弾:伝説のブランド『セーラーズ』三浦静加社長、おニャン子クラブへの衣装提供は「2回断っていた」/第2弾:年商28億円、CELINE社長と対談、マイケル・ジャクソンと“マブダチ”。『セーラーズ』社長の全盛期がすごすぎる

突然の閉店に迷いなし。アメリカまで娘の治療に

──渋谷にあった店舗を閉店されたのは、どうしてだったのですか?

1998年、45歳のときに妊娠したんです。娘のセーラーは予定日より約2か月も早く生まれたので体重も少なく、1773グラムしかありませんでした。産まれたときに片方の肺が半分しかできていなかったため、手術したんです。そのあと、ハンディキャップが残るかもしれないという説明があったのですが、すぐに病名は判明しませんでした。退院してからも、娘の呼吸が止まって救急車で運ばれることなどが何度もあって、セーラーズと育児の両立は難しいと思ったので、店は閉店しました

──店を閉めるとき、周りから引き留められなかったですか? 

「誰にも相談しなかったんです。お店のスタッフにも、なんて説明したか記憶がない。それよりも、母親として娘の病名を見つけることや治療に全力を注ぐことがいちばんだって思ったんです」

──セーラーさんのために、どのようなことをされたのですか?

「当時、入院した病院には脳神経外科がなかったため、セーラーは小児科での扱いとなり、1歳になっても病名すらわからなくて。もっと高度な医療を受けるために、アメリカまで行きました。アメリカの最先端医療なら、セーラーの病名もわかるかもって考えたんです

──アメリカには、なじみはあったのですか?

「旅行では何度も行っていましたが、病院は初めてでした。しかも、私は英語ができないのに、病院まではホテルからタクシーを使って行かなければならない。どうすれば安全なタクシーを見つけられるのかわからなくて、思わずアメリカにある日本大使館にも電話しました。同時通訳サービスを利用したのですが、通話料が1分あたり3800円。病院に電話すると、“ジャストモーメント”って、延々と保留にもされましたね

──金銭的負担も大変だったと思いますが……。

「よく“セーラーズで売れたお金があるから海外に行った”って言われるんですが、そうじゃない。お金のあるなしではなくて、そのとき、何がいちばんベストかっていうことを考えて動いているんです。でも、サイコロを振ったなら、それに対しては自分の責任だと思っています。

 アメリカまで行った甲斐もあって、娘は脳性まひだということがわかりました。日本にベストなリハビリを受けられる環境がないのなら、向こうへ引っ越す覚悟でしたが、アメリカの医師に“日本も理学療法は発達しているから大丈夫だろう”と言われ、戻ってきました」

介護に追われる生活でも明るく過ごせる理由

──芸能界の方々との交流もあった華やかな生活と、セーラーさんの介護が中心の生活では、かなり変わったのではないですか?

「好きなことはもうやってきていますからね。5カラットや10カラットの宝石も持っていたし、ずっとベンツに乗って、世界で1台の車も持っている。以前は、芸能人たちのパーティーに毎日のように行ったりしていました。でも、ケータイに届くお誘いに返信することもストップしたんです。そうやって返事をしないうちに、自然と連絡が来なくなった。だけど、仲良しの小錦(小錦八十吉。元大相撲力士)だけは、“しーちゃん、何してるの〜”って、家まで来ちゃったんですよ。だから、今でもずっと交流があるんです

仕事場には世界のスターたちとの写真や、テレビ出演時の紙芝居たちがたくさん。三浦さんがいかに輝かしい日々を送ってきたかが分かる 撮影/渡邉智裕

──現在は、どのような生活をされていますか?

要介護4で今年91歳の母親と、23歳になる娘と3人で暮らしています。事実婚の人はいたけれど、出て行っちゃいました(笑)。彼も脳梗塞を患っていたので、運転などもできないし、(私たちに)悪いなって感じたのかもしれないですね」

──セーラーさんやお母さまの介護はどのようにしていますか?

「母は週2回デイサービスに通っており、家にいるときは在宅で介護をしています。娘は、昼間は施設に通っていて、迎えが来る10時までのあいだにトイレのお世話とか介護もやらなきゃならない。毎朝の、手足のストレッチやリハビリも欠かせません。帰ってきてからも、娘と一緒に2時間半のリハビリをします。夜に娘が寝ない日は、私も1時間半くらいしか寝られません。

 でも、ときどき“ハンディキャップがある娘や母の世話を1人でしているのは大変だね”と言われるんですが、“全然平気だから、みんな介護についてもっと突っ込んで”って、周りに伝えているんです」

──それはどうしてですか?

「私が介護やハンディキャップがある娘の話を普通にすることで、相手や周囲も、もっとフランクに介護などの話ができると思うんです。よく“どうしてそんなに明るいの? ”って言われるんですけれど、“暗くなって、プラスのことってある? ”と返すんですよ。暗くなる意味、ないじゃないですか。介護もどうせやるなら、笑顔でやるのは難しいけれど、“怒ったところでどうするの”って思っています

──親の介護は、みなさんがぶつかる問題ですからね。

「今の日本、ひどくない? うちの母は自営業だったので、年金がないんです。国の制度を変えていかないと、介護をする人も大変なままだと思う。それで選挙(2017年都議選)にも出馬したんです。小錦に相談したら、「しーちゃん、俺が応援団長やるから」と言ってくれたし、セーラーズファンのみんなも応援してくれた。選挙の結果はだめだったけれど、無所属で4514票いただいたんです」 

「みんなが生きやすい世の中になってほしい」と三浦さんは語る 撮影/渡邉智裕
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