本業は日々の食卓
日々の食卓を備忘録的に記録し始めたInstagramもいろいろな方々からたくさんフォローして頂いて、夕食の写真を上げ忘れただけで「昨夜は晩ごはんどうしたのですか?」「お疲れですか、お大事に!」といろいろな方がメッセージをくださる。
家族のため、カフェ、宿、常に日々料理をしてきた僕にとって、時折のお弁当や撮影のためだけにご飯を作っていると誤解されたくない。
日々の暮らしの料理の先に、お弁当や撮影がある。お刺身とグラタンとか、家庭の食卓だからこその不思議な取り合わせも、今や僕の専売特許となっている。本業は日々の食卓、そう思いながら、毎日写真を撮っている。
食については姉妹の暮らしからも存分に影響を受けた。
姉妹のお父さんは大変な食い道楽だったので、ちょっとごはんに言ってくるとすぐ関西へ行ってしまい、東京では、好物のふぐを毎日のように食べていたとか。
姉は得意なタンシチューを、何度も食べ切れないほど作ってくれた。
牛スジ肉を使って作るボルシチも、僕のレパートリーに加わった。このボルシチは、開高健さんもよく食べてくれたのよと話していた。
食の話は、感覚的なことや登場人物も含めて、昭和の真ん中辺で止まっていて、あの料理屋あるかなあ?という店は関西方面の老舗を除いてだいたいなくなっていた。あの中華屋さんで、志賀直哉さんとご飯をよく食べたとか、勝新太郎さんとニューラテンクォーターで踊った話、ダンスを教えてくれたのは勅使河原監督だったとか、実際に交流のあった、色濃い昭和の文豪や俳優たちの名前を聞かない日はなかった。
こうして書き記していけば貴重な昭和文化史だが、日々何時間も聞かされると、自分の世界に戻るのには時間が必要だった。エレベーターの5階と2階で、昭和と現在を行ったり来たりする、そんな日々が続いた。