子どもの心の深さを知れた

 最初は嫌だったのに、いつしか小学校の教員の仕事にのめりこんでいました。子どもたちの心の奥深さを徐々に知ることができたからだと思います。

 初めての年に担任した5年生のクラスには、とても優秀な子がいました。勉強も運動もなんでもできて、いつもクラスのトップにいるような子でした。ところが、その子が書いた班日記を読んでびっくりしたのです。その子は《みんなといるときの自分は本当の自分ではない》などと書いていました。一見すれば優等生で、クラスの中で何の苦労もない子が、実は心の中で「自分とは何か」ということに深く悩んでいました。小学校の子どもがこんなことを考えているなんて、当時の私は予想もしていませんでした。子どもたちの心はすでに十分大きくて、奥深いものになっていることを知りました。

 5年生、6年生と持ちあがりで担任をした後、教員3年目の私は1年生のクラスをもつことになりました。本来教えたかった中学生とは年齢差が大きく、さすがに嫌になるかと思ったものでしたが、結果はまったく逆でした。1年生を教えていると、またまた気づかされました。まだ幼い子どもたちが、大人と同じ大きさの、いや、大人よりももっと大きな心を持っていたのです。

 私は子どもたちに興味があるので、当時どんなことがあったか具体的に思い出すことがたくさんあります。特に1年生のクラスを担任するときは、いつもうれしい発見があるのです。例えば、1年生のクラスに聖華さんという子がいたのは前にも話しましたよね。周囲よりも発育が少し遅いと思われる子でしたので、ほかの子どもたちがいろいろな形で身の回りのことを手伝っていました。聖華さんは素直でいつもニコニコしている子なので、クラスのみんなの優しい気持ちが大きく育った、と言ってもいいと思います。

 1年生はまだ「学校ではこうするものだよ」というルールを先生から教わっていません。だから、一人ひとりが自分なりの表現の仕方で優しさを見せてくれます。聖華さんが何かに困っていたら、授業中に席を立ってでも助けに行く子もいました(席を勝手に立つことは本来注意されるべき行為なのですが、聖華さんの手助けには誰も異議を唱えません。子どもたちは本当の正しさを知っているのです)。

 多くの子どもたちが自然に聖華さんの手助けをします。けれども、ひとりだけ、ギリギリまで手を貸さない子がいました。大羽さんという子でした。例えば聖華さんが帰りの支度をするとき、大羽さんはすぐに手伝わず、本人が教科書をランドセルに詰めるのをじっと見ています。最後の最後に、本人が入れ忘れたものがあったときだけ教えてあげたり、入れるのを手伝ったりしていました。私は心を砕かれました。これが子どもたちの力なのか……。聖華さんができることは聖華さんにやってもらう。それが本当の優しさであり、思いやりではないか。そんな風に考える子が目の前にいました。ルールで縛らず、自由にさせていると、1年生たちはありとあらゆるときに、自分の中にある純粋な優しさを表現してくれます。

 後日、保護者面談のときに、私は大羽さんのお母さんにそのことを話しました。お母さんは「ああ、うちには赤ちゃんがいるからですね」と話していました。お母さんが赤ちゃんを育てているのを見て、大羽さんは学んだのでしょうね。

 紹介したのは最近の例ですが、1年生の子たちと一緒にいると、いつもこういう、心を打たれる出来事があります。教員3年目のころも、そういう経験の連続だったことをよく覚えています。