今はベテラン教員の田中まさおさんにも、初々しい「新人時代」はあったはず。どんな教員だったのでしょうか。そもそもなぜ、田中さんは教員を目指したのでしょうか。聞いてみました。(聞き書き/牧内昇平)
※本文中に登場する子どもの名前はすべて仮名です。
中学校の教員になりたかった
教員になろうと思ったのは中学生のころです。埼玉県内の公立中学校に通っていましたが、2年生のとき、「川瀬先生」という若い女性の先生がクラスの担任になりました。この人の影響が大きかったです。生徒を管理しようとせず、一人ひとりの人格を認め、自由に行動させてくれました。大学を出たばかりでとても若かったのですが、授業もわかりやすく、社会科の授業では、ただ覚えるのではなく『その時代の背景を考えることから歴史を理解していく』ような学び方を教えてくれました。そして、いつも何か熱いものが伝わってくる先生でした。
川瀬先生は授業中に自分の考えを主張する先生でした。黒板の前に新聞記事を広げ、社会情勢について話してくれました。そのとき「教科書にはこう書いてある」と言うのではなく、「私はこう思う」ということをきちんと話していたのが印象に残っています。授業中はみんなが自由に発言できる雰囲気があり、生徒から反論があると対等に議論してくれました。今の先生たちの多くは「教科書に載っていることをいかにわかりやすく伝えるか」に腐心しています。でも、川瀬先生は「教科書を使って何を語り合うか」を考えていたと思います。まさに今求められている主体的かつ対話的な深い学びの授業が、あのころからあったのです。
私は当時、生徒会長を務め、いろんなことにトライさせてもらいました。期末テストの後に生徒が球技大会を企画・運営したり、近所に廃校舎があったので夏休みにクラスのみんなで行って泊まったり。担任が川瀬先生だったからできたことかもしれません。そういった楽しい経験がたくさんあったので、私は自然と中学校の教員を目指すようになりました。
給特法の趣旨が生きていた時代
ところが、思いどおりにはいきませんでした。大学卒業後、教員採用試験を受けましたが、その時代は中学校の採用枠が極端に少なくて、私は小学校に回されました。最初は不服だったんです。異動希望を出して、なるべく早く中学校で働かせてもらおうと思っていました。
それくらいの気持ちで、初めて教員として小学校の門をくぐったのは1981年4月のことでした。驚きましたね。初出勤のとき、「田中先生は5年生のクラスの担任をお願いします」と言われました。それはいいのですが、その後誰からも指示がないのです。隣のクラスを担任する先輩教員も、校長ら管理職も、「ああしなさい、こうしなさい」とは一切言いませんでした。
手探りで準備しているうちに4月8日の始業式になって、それ以来、授業から生活の指導まで自分ひとりでやりました。今思えばそれでよかったのだと思います。知識や経験がないので子どもたちに自由にやらせて、ただ見守るしかありませんでした。子どもを管理せず、自由にやらせたうえで、教員というよりもひとりの大人として、「それは違うんじゃないか」と思った点を伝えました。結果としては、私が憧れた川瀬先生に近いことをしていたように思います。
今の学校では、新任の先生に対して校長経験者が張りつき、「こういう風に指導してください」と指示を出します。大学で教育についてたくさんのことを学び、すぐにでも実践したいと意気揚々としているのに、さらに校長経験者が知識を詰め込むのです。その知識は結局、「教育はこうあるべきだ。子どもはこうあるべきだ」という方向にいきます。要するに、子どもを管理する方向です。私は賛成できません。若い先生たちには自由にやらせるべきです。そうすれば、その先生たちは子どもを管理せず、自由に学ばせます。そうした教育の広がりが自由な社会をつくります。「管理された社会」よりも「自由な社会」のほうがいいと思います。
教員たちの働き方は今よりものんびりしていました。ベテランの人たちは夕方5時すぎに帰っていったし、新人の私も夜7時より遅くなることはほとんどなかったです。いちばん大きいのは「やらなきゃいけない仕事」が少なかったことです。例えば、「週案」(1週間の授業計画)を書いて管理職に提出する必要はなく、自分の頭の中で考えておけばよかった。「音読カード」を子どもたちに毎日提出させる決まりもなかった。自分が必要だと思う仕事だけをやっていました。私の場合、授業の準備とか、学級通信とか、子どもたちの作文を入念に読むとか、そういうことに時間をかけていました。仕事を「こなしている」感覚はなく、「楽しんでいる」感覚でした。
公立学校教員の給与の仕組みは「給特法」という法律が定めています。教員の仕事が「自主的・自発的なもの」であることを前提にして「超勤4項目」を除いて残業を命じることができないようにしています。今の教員の仕事は「自主的・自発的なもの」ではないので、給特法の前提が崩れています。でも、私が働き始めた40年以上前は、給特法の趣旨がまだ生きていたと思います。
子どもの心の深さを知れた
最初は嫌だったのに、いつしか小学校の教員の仕事にのめりこんでいました。子どもたちの心の奥深さを徐々に知ることができたからだと思います。
初めての年に担任した5年生のクラスには、とても優秀な子がいました。勉強も運動もなんでもできて、いつもクラスのトップにいるような子でした。ところが、その子が書いた班日記を読んでびっくりしたのです。その子は《みんなといるときの自分は本当の自分ではない》などと書いていました。一見すれば優等生で、クラスの中で何の苦労もない子が、実は心の中で「自分とは何か」ということに深く悩んでいました。小学校の子どもがこんなことを考えているなんて、当時の私は予想もしていませんでした。子どもたちの心はすでに十分大きくて、奥深いものになっていることを知りました。
5年生、6年生と持ちあがりで担任をした後、教員3年目の私は1年生のクラスをもつことになりました。本来教えたかった中学生とは年齢差が大きく、さすがに嫌になるかと思ったものでしたが、結果はまったく逆でした。1年生を教えていると、またまた気づかされました。まだ幼い子どもたちが、大人と同じ大きさの、いや、大人よりももっと大きな心を持っていたのです。
私は子どもたちに興味があるので、当時どんなことがあったか具体的に思い出すことがたくさんあります。特に1年生のクラスを担任するときは、いつもうれしい発見があるのです。例えば、1年生のクラスに聖華さんという子がいたのは前にも話しましたよね。周囲よりも発育が少し遅いと思われる子でしたので、ほかの子どもたちがいろいろな形で身の回りのことを手伝っていました。聖華さんは素直でいつもニコニコしている子なので、クラスのみんなの優しい気持ちが大きく育った、と言ってもいいと思います。
1年生はまだ「学校ではこうするものだよ」というルールを先生から教わっていません。だから、一人ひとりが自分なりの表現の仕方で優しさを見せてくれます。聖華さんが何かに困っていたら、授業中に席を立ってでも助けに行く子もいました(席を勝手に立つことは本来注意されるべき行為なのですが、聖華さんの手助けには誰も異議を唱えません。子どもたちは本当の正しさを知っているのです)。
多くの子どもたちが自然に聖華さんの手助けをします。けれども、ひとりだけ、ギリギリまで手を貸さない子がいました。大羽さんという子でした。例えば聖華さんが帰りの支度をするとき、大羽さんはすぐに手伝わず、本人が教科書をランドセルに詰めるのをじっと見ています。最後の最後に、本人が入れ忘れたものがあったときだけ教えてあげたり、入れるのを手伝ったりしていました。私は心を砕かれました。これが子どもたちの力なのか……。聖華さんができることは聖華さんにやってもらう。それが本当の優しさであり、思いやりではないか。そんな風に考える子が目の前にいました。ルールで縛らず、自由にさせていると、1年生たちはありとあらゆるときに、自分の中にある純粋な優しさを表現してくれます。
後日、保護者面談のときに、私は大羽さんのお母さんにそのことを話しました。お母さんは「ああ、うちには赤ちゃんがいるからですね」と話していました。お母さんが赤ちゃんを育てているのを見て、大羽さんは学んだのでしょうね。
紹介したのは最近の例ですが、1年生の子たちと一緒にいると、いつもこういう、心を打たれる出来事があります。教員3年目のころも、そういう経験の連続だったことをよく覚えています。
生涯、小学校の担任として
最初は中学校の教員を目指していましたが、今思えば、中学校と小学校の担任は役目が異なっていると思います。中学校の担任は生徒との対話を通して、将来の夢やどういう風に生きたいかを考えさせます。小学校の担任は子どもの心そのものの成長を見守ります。そんな違いがあるのではないでしょうか。
中学校の場合、担任と言っても教えられるのは専門の教科だけです。小学校では専科を除いてすべての教科を教えるので、そのぶんクラスの子と一緒にいる時間が長くなります。私の場合、30人くらいの子どもたちと一日じゅう一緒にいて、一人ひとりの心を丁寧に見つめる仕事にとてつもない魅力を感じています。
私は職場結婚です。パートナーの淑絵さんは同じ小学校の音楽の教員でした。専科なので同時期にたくさんのクラスを教えていたのですが、私のクラスだけ子どもたちがとても楽しそうにしているのに驚いたそうです。「担任の先生はどんな教え方をしているのだろう?」と興味を持ち、それがきっかけで私に話しかけてくれて、交際が始まりました。その後ずっと、私の最大の理解者は淑絵さんです。管理職にならないかと声をかけられたこともありますが、淑絵さんが「あなたは一生、担任を続けるべき」とアドバイスをくれました。教員の長時間労働に対してひとりで裁判を起こしたときも、ずっと味方でいてくれました。いちばん大切なのは命ですが、二番目は家族です。私はそう思っています。
今の教員たちは長時間労働を強いられています。働きすぎで犠牲になるのは本人の生命と家族です。この状況を改めなければいけません。公立学校の教員には「給特法」が適用され、残業代が出ません。その代わりに給料の4%の「教職調整額」が支給されます。自民党は今、4%では実際の労働時間に合わないとして、教職調整額を10%以上に引き上げるように提案していますが、調整額を増やしても長時間労働は解決しないでしょう。
日本中どこの学校に行っても、夕方5時以降も教員が学校に残っていると思います。その教員たちは自主的に残っているのではなく、「与えられた仕事」をするために残っているのです。しかし、この与えられた仕事は労働に当たらないと評価されています。最初にやらなければいけないことは、夕方5時以降の仕事を当たり前に「労働」と認めさせることです。そして、今の教員の仕事が勤務時間内に終わる量と内容なのかを吟味し、終わらない分は教員の仕事から切り離すことです。
(取材・文/牧内昇平)
田中まさおさんの裁判を支える「田中まさお支援事務局」は’23年4月23日、第2次訴訟の原告の詳しい募集内容を公開しました。主なポイントは以下の4点です。
《原告の応募条件》
1. 個人的な利益ではなく、本訴訟の趣旨に賛同してくれる人
2. 給特法が適用される、公立学校の現役教員もしくは元教員の人
3. 長時間労働を理由とする国家賠償請求を行いたい人
4. 正式に原告となる場合、訴訟費用として20万円を負担できる人
田中まさお支援事務局によると、すでに教員を退職した人でも、時効(原則3年)が過ぎていなければ裁判を起こせます。また、裁判の費用については、クラウドファンディングなどで寄付を募るため、個人の負担は20万円に抑える、としています。7~8月の夏休み期間に説明会を開き、そこで弁護士や支援事務局のメンバーたちが面談を実施します。詳細は田中まさお支援事務局のTwitterアカウントなどへ。
◎田中まさお支援事務局公式Twitter→https://twitter.com/1214cfs
◎著者・牧内昇平Twitter→https://twitter.com/makiuchi_shohei