高齢の老姉妹の養子になるのと前後するように、要一郎さんは人生のパートナーに出会う。老姉妹とパートナー。苗字が変わり、新しい家族ができ、現在へと続く要一郎さんの物語、いよいよ完結です。(全5回の最終回)
◎麻生要一郎さんの唐揚げ 第1回:養母の死
◎麻生要一郎さんの唐揚げ 第2回:新しい人生のはじまり
◎麻生要一郎さんの唐揚げ 第3回:母との別れで運命が変わった
◎麻生要一郎さんの唐揚げ 第4回:お告げ
建設会社の3代目として働いたのち、知人に誘われ新島で宿を始め料理人の道へ。その後、不思議な縁に導かれて高齢姉妹の養子となる。主な著書に『僕の献立』『僕のいたわり飯』(ともに光文社)がある。
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要一郎さんの唐揚げ
苗字が変わったからと言っても「現実」はそんなに変わらない。
お告げをくれた友人が薦めてくれた、足の裏を鑑定してくれる方がいて「表参道、根津美術館の近く、本がたくさんあって、新しいものと古いものが混在して、上って下りる……上って下りるって何かしら……」
そう言ってくれたのは、引っ越しをする半年くらい前のこと。何のことかよく分からず、その場所が一体何なのかと尋ねたら「あなたの居場所です」とだけ言われた。特別、意識して探したわけではないけれど、自然と導かれるようにその場所へたどり着き、パートナーと出会った。
ビルの入り口に面した階段で2階まで上って、店内の客席へ階段を何段か降りるような作りだった、その場所はパートナーが営む本と珈琲のお店だった。
毎日、時間を持て余していた僕は、夕方になるとそのお店の大きなテーブルの端っこに座って、コーヒーを飲んで時間を潰していた。養子になっても、特に何かをするわけでなく、どうしたらよいのかもよく分からない、関係性を探る日々。料理の仕事もほそぼそと始めたけれど、得意料理が「唐揚げ」なんて凡庸な人間に一体、何の料理の仕事ができるのかと思ったりもした。
ある時、編集者の友人にお弁当を作ってよと頼まれて、雑誌の撮影現場へお弁当を届けた。そういうお弁当のニーズがあるなんてことは、僕は知らなかった。いつも通りのおかずを詰めて届けると「美味しかったよ」と、友人に喜んでもらえたことがただ嬉しかった。
その現場にいたという方から、また違う現場にお弁当を依頼されて、どんどん名もなきお弁当が一人歩きしていった。そのうちに雑誌にお弁当が掲載されたり、レシピを取材されたり、パートナーのお店でお弁当の会もした。
お弁当が世界を広げてくれた感じがする。今でこそ青山の母と慕う、『DEE’S HALL』の土器さんに「美味しかった!」と言ってもらえたことは、とても嬉しかった。いろいろ美味しいものを食べてきただろうし、料理上手な友人もたくさんいる、ご自身も本を何冊も出している料理上手、お世辞も言わない、そんな彼女に認めてもらえたのは太鼓判を押された感じがして、自信がついた。
そして年は近いが娘のように思っている、坂本美雨さんが「タベタイ」という児童番組向けに作った歌、世界中のタベタイものが綴られた歌詞の中に「要一郎さんの唐揚げ」として登場させてもらったことは、生涯の思い出。
自分の作った、ごく普通の家庭料理が名前とともに、歌の中に登場するなんて経験はなかなかあることではない。
子供の頃から好きな食べ物は唐揚げ、料理を仕事にしても得意料理は唐揚げ、そんな唐揚げ人生に大きな勲章を頂いたような出来事だった。僕のお別れ会をする時には大事なタイミングでこの歌を流して欲しいと思っている。
本業は日々の食卓
日々の食卓を備忘録的に記録し始めたInstagramもいろいろな方々からたくさんフォローして頂いて、夕食の写真を上げ忘れただけで「昨夜は晩ごはんどうしたのですか?」「お疲れですか、お大事に!」といろいろな方がメッセージをくださる。
家族のため、カフェ、宿、常に日々料理をしてきた僕にとって、時折のお弁当や撮影のためだけにご飯を作っていると誤解されたくない。
日々の暮らしの料理の先に、お弁当や撮影がある。お刺身とグラタンとか、家庭の食卓だからこその不思議な取り合わせも、今や僕の専売特許となっている。本業は日々の食卓、そう思いながら、毎日写真を撮っている。
食については姉妹の暮らしからも存分に影響を受けた。
姉妹のお父さんは大変な食い道楽だったので、ちょっとごはんに言ってくるとすぐ関西へ行ってしまい、東京では、好物のふぐを毎日のように食べていたとか。
姉は得意なタンシチューを、何度も食べ切れないほど作ってくれた。
牛スジ肉を使って作るボルシチも、僕のレパートリーに加わった。このボルシチは、開高健さんもよく食べてくれたのよと話していた。
食の話は、感覚的なことや登場人物も含めて、昭和の真ん中辺で止まっていて、あの料理屋あるかなあ?という店は関西方面の老舗を除いてだいたいなくなっていた。あの中華屋さんで、志賀直哉さんとご飯をよく食べたとか、勝新太郎さんとニューラテンクォーターで踊った話、ダンスを教えてくれたのは勅使河原監督だったとか、実際に交流のあった、色濃い昭和の文豪や俳優たちの名前を聞かない日はなかった。
こうして書き記していけば貴重な昭和文化史だが、日々何時間も聞かされると、自分の世界に戻るのには時間が必要だった。エレベーターの5階と2階で、昭和と現在を行ったり来たりする、そんな日々が続いた。
プリン食べる?
だんだん、姉妹の病院やら、ケアの時間も必要になり、お弁当の仕事もセーブした頃、テレビで目にしていた著名なタレントさんへのお弁当のお届けも増えた。
ある雑誌でタレントさんへお弁当をお届けした後、お弁当を依頼してくれた編集者の方から「お料理の本を出しませんか?」とご連絡を頂いた。
レシピ起こしは得意じゃないし、そう思いながら、半分断るつもりで、打ち合わせに出かけた。丁寧に僕の話を聞いてくださり、いろいろわがままも申し上げながら、パートナーの協力のもと、1冊目の本『僕の献立 本日もお疲れ様でした』(光文社)が完成。好評だったこともあり、2冊目『僕のいたわり飯』(光文社)も約1年後に発売となった。
本が出たことで、雑誌の取材や執筆依頼も増えてきた現在、お弁当や料理の仕事よりも書く仕事のウェイトが高くなってきている。
これは文芸評論家だった姉妹のお父さんである、賀一郎さんが僕に力を貸してくれているのかなと思っている。書くことは、この家を継ぐ者の宿命なのかもしれない。だいたい、賀一郎と要一郎という名前は本当の親子のようだし、偶然だけでは片付けられない、因縁めいた何かを感じる。
母が亡くなり、チョビを抱っこして、これからは二人で強く生きて行こう。どうなるか分からない、この先何が起きても、いつでもチョビを抱っこして守れるようにと購入した大きなリュック。
あの時は、まさかこうしてまた家族ができるなんてことは想像もしなかった。
家族がいるというのは、嬉しいとか、楽しいとか幸せだとか、そんな言葉で片付けられないことのほうがたくさんあると思う。
だけど、ほんの一瞬だけ煌めく瞬間というのが必ずあるのだ。それで全ては帳消しになる。
冬に姉が自宅で転倒し骨折して入院療養となってからは、今はずっしりといろいろなことが僕の肩にのしかかっている。
この家に来た頃、姉がプリン食べる? そう言って、近くの高島屋で買ってきたモロゾフのプリンをいつも出してくれた。時が経ち僕が買いに行くようになり、今は僕が姉の病院へ差し入れ、少し力を貸してほしいなあと思う時に自分で買って食べるのである。この原稿を書き終えたら、モロゾフへプリンを買いに行こう。
(完)