朝4時台から練習し夜まで仕事。コンクール後はオーストラリアで研さんを積む

店内の壁には、著名人たちのサインがぎっしり! 撮影/渡邉智裕

 本戦は2か月後に、イタリアのミラノで開催される。6時間で10皿分を作り、20か国から選ばれた俊英たちと競う。

朝4時半から、営業前のNARISAWAの厨房をお借りして試作を繰り返し、成澤シェフに試食をお願いし、改善点を指摘していただきました。そのあと職場に行き、夜まで通常どおりの仕事をこなし、毎日のように試作を続けました。

 時間内に10皿を完成させるのは至難の業。だから本番では6時間で完成させるところを、1時間短く設定し、分刻みでスケジュールを組んで、5時間で作る練習をしていました。成澤シェフからは、“日本人としてのアイデンティティをひと皿に表現するように”と教わりました。そこで四季を意識したメニューを考え、食材や器も和にこだわり、生産者とのつながりも学びました。今の料理観は、そのときに培われたものです」

「イノベーティブ“里山キュイジーヌ”」(革新的里山料理)をコンセプトに掲げる「NARISAWA」は、フランスのグルメガイド・ミシュランで2つ星を長年キープ。成澤シェフは、日本の豊かな食文化と先人たちの知恵を自身のフィルターを通して表現する独自の料理を提供し、'10年にスペインで開催された世界最高峰の料理学会にて「世界で最も影響力あるシェフ」に選ばれるなど、海外での評価も高い。そんな成澤イズムを反映した品々が、コンクールでは求められた。

「本番がいちばん、うまくいったと思います。丸ごと一羽使う鴨の火入れがもっとも難題でしたが、成澤シェフにその技術を叩き込んでいただいたことで、今では、鴨料理が私のスペシャリテとなりました」

厨房に立つ古屋シェフの目は凛と輝き、とてもカッコよかった 撮影/渡邉智裕

 惜しくも賞は得られなかったが、後悔はなかったという。そんな稀有な経験ができたこともあり、「海外に行きたい」という思いが強くなった。30歳を機に、ワーキングホリデービザでオーストラリアのレストランに修業に向かう。

「フランスにもいつか行きたいけれど、英語も学びたかったので、修業先は成澤シェフに紹介していただき、オーストラリア・メルボルン郊外にある『ブレイ(Brae)』に決めました。都会から離れた不便な街に、ブレイの料理を求めて世界中から大勢のゲストが訪れることに驚きました

 オーストラリアを代表するシェフ、ダン・ハンター氏率いる「ブレイ」は、ビクトリア州ビレグッラの丘の中腹に位置する。メルボルンや国際空港から車で1時間半。国内外から料理を目当てに多くの人が訪れる。レストラン、ゲスト・スイート、有機農場を備え、自然に浸り、大地の恵みを味わうことができるレストランだ。オーガニックの野菜、柑橘類、ナッツ、オリーブ、蜂蜜、小麦などを栽培し、ファーム・トゥ・テーブル(自家栽培の食材をその場で料理にして出す)型のユニークなオーストラリア料理が提供される。

「一面に畑が広がる風景も、都会では経験できない、すばらしい環境です。野菜などは自分たちで収穫しますし、海にも近い。その日に採った食材をそのまま当日の料理に生かしたりもします。シェフが食材の視察に行く際にはスタッフを連れていってくれることもあり、自分の目で見て、実際に食べるなかで、素材の見極め方を学べたことがいちばんの収穫でしたね」

 刺激的な日々を過ごしていたが、折しもコロナ禍で、オーストラリアは完全にロックダウンされた。海外のほかの土地のレストランでも仕事をしたいという夢は叶(かな)わず、志半ばで無念の帰国となった。しかし、日本では「クラージュ」のオーナーであり、飲食業界で多数の店を成功に導いてきた相澤ジーノ氏が待っていた。

「以前、ホテル『マンダリン オリエンタル東京』で開催されたタイの人気イノベーティブレストラン『ガガン』とのコラボディナーに行きたいと熱望していたのですが、あまりの人気に抽選となり、落選してしまったんです。諦めきれず、直接『ガガン』のシェフにメールをして席を用意していただけたことがありました。その際に同席したジーノさんが、ありがたいことにその貪欲さを買ってくれて、“クラージュがオープンするときのスタッフに”と声をかけてくださり、今に至ります。

 とにかく今は、みなさまの期待に応えたいという思いで奮闘しています。食べに来てくださった方々の笑顔を思い浮かべて作っていますが、お客様にとって『おいしい』はさまざま。ゲストがいちばん食べたいと思う料理を探り、ひとりひとりに合わせたお料理を作れるよう努めて参ります

相澤ジーノ氏と。穏やかに笑い合う2人から、固い絆が感じられた 撮影/渡邉智裕

 フランス料理の名店で食事をする際に、女性シェフがあいさつをしにテーブルを回る姿は、ほぼ見たことがない。それがありふれた光景になるまでには、労働環境を踏まえても、まだまだ時間がかかりそうに思う。その先鞭をつけてくれた古屋シェフが、楽しそうに厨房で料理を作る姿が頼もしい。