“見捨てられ不安”のはじまりは6歳、母が再婚したころから

 1980年代後半。

 実の両親が別れた当時は、離婚家庭が少なく、結婚後は仕事をやめて専業主婦になる女性が多い時代だった。

 育児休業法の施行は'92年であり、母に聞くと「理央が赤ちゃんのころ、出産後も働く女性は少なかったから、育児のために休暇をとるっていう概念もなかった」という答えが返ってきた。

「赤ちゃんが生まれてから、3か月で復職しないとクビやからね」と上司に言われた母は当時27歳、若手の医師だった。法律上、0歳児を保育園に入れられるのが次年度のはじめからだったこともあり、それまでのあいだ、仕事の時間になると自分の両親(私の祖父母)に私を預けに行った。

 その後、両親は離婚したことになる。

 世の中という枠組みの中では「親が片方しかいない子」はマイノリティだったはずだが、私の通う保育園には同じような子どもがたくさんいたので、父親がいないことに対して違和感を覚えることは少なかった。

 とはいえ、母の仕事が朝早くに始まり、夜遅くに終わるのは私だけだった。2歳のときに母方の祖母が亡くなったこともあり、保育園の閉園時間が近づくと、70歳近い祖父、もしくはほかの子どもの親が、代わりに私を迎えにきた。

 自分の母親は忙しいのだな、と思いつつも、まだ幼かったので、母親が自分と離れてまで仕事をする理由はわからなかった。

 母も母で、泣きながらすがる私を保育園に置いて仕事に行くのはつらかったそうだ。

 実父の養育費の支払いは私が3歳のときに途絶え、6歳になると母の再婚によって養父ができ、すぐに父親の異なる妹が生まれた。

 妹は可愛くてうれしかったが、一方で「私は母に見捨てられたら生きていけない」と思うようになり、寂しさとともに、“見捨てられ不安”が芽ばえた。

 この寂しさと不安が、場面緘黙症の発症につながったのかどうかはわからないし、医学的に解明することもできない。ただ、その後、“見捨てられ不安”が私の中で育っていったのは確かだった。

場面緘黙症とは?

 言語能力は正常であり、家では問題なく普通に話すことができるのに、特定の状況(例えば、幼稚園や学校など)においては声を出して話せないことが1か月以上続く疾患で、選択制緘黙症ともいう。話す必要があると感じても話すことができないほか、身体が思うように動かせず、固まってしまうことも。500人に1人ほどの割合で発症するといわれており、5〜10年以内に改善することも少なくないが、慢性化して成人になっても症状が続く場合もある。

幼稚園で受けた体罰、「消えたい」と初めて思ったあのとき

 母の再婚と同時に、私は保育園から大阪市内の幼稚園に通うことになった。うまく整列できなかったり、イベントで失敗したりする園児に対して先生たちが手をあげる幼稚園で、私もいわゆる体罰を受けた。

 初めてたたかれたときの衝撃を今でも覚えている。「消えたい」と初めて思ったのは、そのときだったのかもしれない。

心に広がる曇り空は幼少期からあった

 人に話すと親の離婚・再婚は「当時珍しかったこと」、体罰は「当時よくあったこと」としてまとめられてしまうのだが、それを経験した当事者の個人的な感情は見逃されがちだ。

 もちろん苦しいことがあっても、受け止め方は人それぞれである。

 私と同じ経験をしても、場面緘黙症を患う人のほうが少ないだろうし、「消えたい」と思ったことがない人もいるだろう。

痛みは今も残るが、自分が弱いからこそ見えてくるものもある

「逆境を乗り越えたからこそ強くなれたんやね」「よくここまで生きてこられたね」とよく言われるのだが、反対に幼児期に遭遇した出来事や逆境は、自分を弱くしたと思っている。

 潜在的な寂しさ、“見捨てられ不安”、「消えたい」とよく思うこと。

 これは10代の私を作り上げたものであり、今の私の中にもある。

 苦しい経験をしたほうがいいとは思わないし、私自身、思い出すことで再び傷つくのが怖くて、ほかの人にまだ話したことのない経験もある。

 唯一の救いは、弱いからこそ、他人の気持ちや心の傷に敏感になれたことである。

 また、同じ経験をしても、心に負う傷の深さは人によって異なる、ということも理解できるようになった。

 潜在的な寂しさは、消えることなく今後の人生でも背負っていくものだと考えているし、日々の中で突然「消えたいなあ」と感じることも、死ぬまでゼロにはならないかもしれない。

 幼少期の苦しさは、小学生時代に場面緘黙症を患った経験を経て、その後の10代の私を形作る。

(小学生時代の、話せない苦しさを理解してもらえずにいた日々の経験については、以前のコラムで詳しく描写しています→記事:【10代を生き抜いて、いま#1】場面緘黙症の私を追い詰めたのは、あの日、先生が振りかざした「正しさ」

 第3弾の記事では、寂しさや消えたい気持ちはいつか消えると信じていた、あのころの“かさぶた”をゆっくりとはがしてみたいと思う。読者の方が私と同じ経験をしていなくても、発信することによって「思いは共有できる」と信じて。

(文/若林理央)