不登校2年目で訪れた、高校進学へのラストチャンス

 不登校になったのは中学1年の2学期からで、夏以降の春夏秋冬はあっという間に終わり、学校へ行けなくなってから2度目の夏が来た。そしてその夏も過ぎ去り、肌寒い季節になったころ、担任教師が母にこんな提案をしたという。

「うちは中高一貫校ですので特例を設けます。中学2年の3学期から卒業するまでの1年3か月のうち、3分の2以上出席したら、ほかの生徒たちがエスカレーター式で進む高校の受験を可能にします」

 これは私だけに提案された内容ではなかった。同学年で不登校の生徒は私を含め3人いたので、彼女たちの親もそれぞれ同じようなことを担任教師から言われただろう。

 高校に進学するためのラストチャンスだった。

「理央さんのクラスには、仲良くしてくれるような優しい生徒を2人入れます。だから安心して登校してください」

 “優しい”と言うより、“正義感の強い”生徒と言ったほうが正しいだろう。とはいえ、いじめられて不登校になった「かわいそうな子」を救ってあげたいと思う10代の女子は珍しい。

 教師からの言葉を聞いて「行こう」と固く決意したわけではなかったが、その後、“再び制服を着てバスや電車に揺られたのはなぜか”と聞かれると、いまだに明確な答えが出てこず「将来が不安だったから」としか言えない。

 覚えているのは正月に家族でお参りに行ったあとの、幼い妹の言葉だ。年が離れているのでまだ4歳だったと思う。

「りお姉ちゃんが学校に行けますようにってお祈りしてん。えらい?」

 幼さゆえの残酷な言葉だった。

 祖父、父、母、私、妹2人。そんな家族の中でいちばん年下の妹からもそんなふうに願われていたのは、きっと祖父や両親の気持ちを無意識のうちにくみ取ったからに違いない。

「いやになったらもう行かない」

 私は母にそう言って1年半ぶりに登校した。そして条件を満たして高校に進んだ。

 私以外の不登校の生徒たちは、学校に行けないまま中学校を卒業したという。

 彼女たちはどうしているだろうかと、今も考えている。もしかすると私が選択しなかった人生を生きているのかもしれない。人の人生は個々で異なるから、そんなはずはないのに。

 3人で会う機会があれば何かが変わっていたのかもしれないが、当時の私たちは自分のことで精いっぱいだったし、大人たちもそんな提案はしなかった。

 「学校に行く」と決めたことは、私の人生で最大のターニングポイントになった。

学校に行き始めても、苦しみはどこまでも追ってきてぐるぐる回っている気分だった