『さくらちゃんがくれた箱』『あたし、時計』など、SNSでも話題になる作品を数多く手がけている漫画家・小田桐圭介さん。
その才能が評価され、『月刊アフタヌーン』主催の漫画新人賞では2010秋に佳作を受賞。その後、出版社から連載のオファーを受けるも連載には至らず、会社員として生計を立てながら、SNSや同人誌の即売会を中心に作品を発表しているといいます。
漫画家にとっての憧れともいえる長期連載を、なぜ断ったのか。そこには、小田桐さんなりの哲学がありました。
(小田桐さんの創作活動のルーツについては、インタビュー第1弾で語っていただいています→SNSで話題の漫画家・小田桐圭介さん、創作活動のルーツは「無情な話を書きためたメモ」と“ナンセンスの神様”)
同人誌即売会をきっかけに“自分のため”から“他人のため”の漫画づくりへ
──大学生のころに漫画を描き始めてから、漫画家・小田桐圭介として作品を出したのはいつになるんでしょうか?
「作品を出したのは、大学を卒業したあとですね。友人に、『COMITIA』(コミティア)という同人漫画誌の展示即売会を教えてもらったのがはじまりです。コミックマーケット(※)の存在は聞いたことがあったんですけど、(パロディなどでなく)完全創作の作品のみの即売会を、それまでは知らなかったんです」
(※通称、コミケ。日本最大の同人誌即売会。2次創作の作品が多い)
──では、そこに向けて制作していたという感じでしょうか。
「いえ、実は、COMITIA向けに作ったわけではなかったんです。初めて社会人になってから描いた漫画『電柱の人が見える僕の話』が完成したとき、うれしくなって、お金をかけてオフセット印刷(書籍や商業印刷で主流の印刷方法)をしたんです。でもオフセット印刷って、最小ロットでも100冊とかなので、友人に配ってもかなり余ったんですよ。困り果てているときに友人からCOMITIAを教えてもらい、いい機会だと思って参加しました」
──初めての即売会はいかがでしたか?
「すごく面白かったです。それまでは、どちらかというと“自分のための漫画づくり”をしていたのですが、COMITIAみたいな発表の機会があるなら、“他人が読む漫画づくり”を意識しようかなと思ったことが、今の活動に至るきっかけにもなりました」
──大学生のときは、自分のための“表現活動”として漫画を描く、という感じだったんですね。
「そうですね、それまでは友人に見てもらったりする程度で、他人の目を意識するというよりは、自分の中のモヤモヤした感情とかを明確に紙に落とし込む作業をしているって感じでした」
──発表しているものだと、初めてCOMITIAで販売した『電柱の人が見える僕の話』にその雰囲気が残っていますね。
「この作品は自分と、COMITIAを教えてくれた実在の友人もそのまま出したりして、当時の自分の状況が色濃く反映されています。今思えば、当時に抱いていた“社会人になって時間に余裕がなく、なかなか漫画を描けない!”っていうモヤモヤした感情が強く出ていて、自分の中にある何かを壊したい、みたいな願望がにじみ出た作品になっているのかなと思います」
漫画家だけで食べていこうとも、それが可能だとも思っていなかった
──では、漫画家になるという意識は大学生のときにも、まだなかったんですね。
「というより、最初から商業系の漫画家になろうとは思っていませんでした。“ライフワークとして一生続けていくんだろうな”って漠然と思っていたくらいで。今みたいに、こうやって人に読んでもらうようになるとは、まったく想像していませんでしたね」
──そうだったんですか。いち読者としては、有名雑誌で連載するような漫画家を最初から目指していた方なのかなと思っていました。
「漫画だけで食べていこうとは考えていなかったし、そもそも、それが可能だとも思っていませんでした。
当時は電子書籍も出始めたばかりのころで、不況によって雑誌も売れなくなっていた時代で、出版業界じゃなくても、有名な会社ですらドンドン倒産したり、事業を撤退したりしていたんです。そんな逆風の中で雑誌連載の漫画家になるのは、むちゃだなって思っていました。そのため、大学生のころから絵の勉強と同時に、普通の勉強にもかなり力を入れていました。だから、純粋な漫画家として同年代の方が活躍している姿を見ると、本当に尊敬しますね」
──学生時代から、今の地盤を手堅く固めていたんですね。
「はい。高校生になり、さまざまな評論などを読んでいるうちに、“人の視点が変わると、正しいと思える内容が変わる”ということに気づいたんです。だから、大学に行ったら自分の正しい判断軸を作らなくちゃいけないなと考えていたんです。
当時の自分には、どちらが(何が)正しいか判断できる“よりどころ”がないなって思って、このままじゃマズいぞってすごく焦っていたんです。なので、大学に行くときには漫画を描くのと同時に、物事を判断する根っこを作るための勉強をちゃんとやろうって決めていました」
──高校生にして、それだけの危機感があったんですね。
「そうですね。物事について感想は言えても、“なぜそう思ったか”を言えないなら、それは自分が空っぽっていうことだ! って10代のころにずっと思っていたので、志望の大学に向けて必死に勉強していましたね。こういう考え方も、自身の創作につながっているのかもしれません」
「アフタヌーン四季賞」で佳作受賞、連載の打診を受けるもすぐに断る
──その後、会社員として働くかたわら、2010年の秋に講談社『月刊アフタヌーン』が主催する漫画新人賞「アフタヌーン四季賞」で佳作を受賞されていますが、連載に至らなかったのには何か理由があるのでしょうか?
「実は、賞を受賞したときに担当編集の方に声をかけていただいて、出版社さんに打ち合わせをしに行ったんです。そこでおほめの言葉をいただいて、“次の作品を持ってきてほしい”と言われました。でも先ほど言ったとおり、もともと漫画家一本で食べていこうなんて思っていなかったんです。
そもそも『月刊アフタヌーン』の賞に応募した理由が、“自分の漫画は、商業的にどんな評価をされるのかな?”という力試しでした。当時はCOMITIAを通して、初めて人から見られることを意識した作品を描くようになったころ。最初から、“たまに短編で載せてもらえたらいいな”っていうモチベーションだったので、長期連載はまったく考えていませんでしたね」
──自ら断ったということですか?
「そうです。確か、担当編集の方と会って別の漫画を持っていったとき、“サラリーマンものの漫画なんてどう?”って、長期連載を前提に打診されたんです。当時、会社員をしながら漫画を描いていましたが、仕事をやめる気も全然なかったので、“じゃあいいです”ということでお断りしました。だから、編集さんとも2回くらいしか会っていないです」
──そうだったんですか、なんだか、もったいない気もしますね……。
「そうですか? まぁ、確かに人によってはすごいチャンスだったかもしれないですけど、ほかにもこういう人は、結構いると思いますよ。
私の考えとして、安定した生活がないと心の余裕がなくなって、いい作品は描けないっていう確信があったんです。例えば、“今は貧乏だけど、売れる漫画を描いて取り返すために頑張ろう!”って思える人は、漫画家に向いていると思います。でも、私の場合はそういう不安要素があると“生活を安定させなきゃ”で頭がいっぱいになるし、創作にリソースが割けなくなって最善を尽くせません。ずっと続けていくには、会社員として働きながら漫画を描くというのが私には合っていたので、連載にこだわりはなかったです」
「安定した生活があるからこそ、創作活動ができる」
会社員と漫画家という二足のわらじをはきながらも、軸をぶらさずに創作活動と向き合ってきた小田桐さんだからこそ、人々に広く認知され、結果的に漫画家としても長く活動していけているのだと思います。
次回、インタビュー第3弾では、小田桐さんが、漫画家としての生命線である視力を奪う緑内障とどう向き合ってきたかについて、語っていただきます。
(取材・文/翌檜 佑哉)
【PROFILE】
小田桐圭介(おだぎり・けいすけ) ◎大学入学時から漫画を描き始め、同人誌即売会「COMITIA」などで販売。会社員として働くかたわら、2010年の秋に『月刊アフタヌーン』主催の漫画新人賞「アフタヌーン四季賞」で佳作を受賞。Twitterに漫画を投稿したことがきっかけで『あたし、時計』『さくらちゃんがくれた箱』といった短編作品がバズり、数年おきに注目を集めるロングヒットになっている。作品に『オダギリックス!小田桐圭介短編集』『香夜たちの話』などがある。
◎公式Twitter→@odagiri_keisuke
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