東京・麻布十番の裏道にたたずむ人気店「クラージュ」。そこで料理の腕をふるうのは、2022年、フランスのレストランガイド『ゴ・エ・ミヨ』の日本版で「期待の若手シェフ賞」を受賞した古屋聖良シェフだ。才能と情熱、技術力にあふれ、今後の活躍を大いに期待させる新進気鋭の料理人が女性であることも話題を呼んだ。
ガストロノミーの世界で「シェフ」と呼ばれる女性は、まだまだ少ない。シェフ(chef)とは、もともとフランス料理の現場で料理人たちを統括する料理長のこと。本人は「特別な苦労はなかった」と話すが、男性社会の中で料理人として切り開いてきた道は、険しいものだっただろう。そこに到達するまでの紆余曲折が、いまの成功を勝ち取らせた。古屋シェフに、料理人になるまでの道のりや有名シェフのもとでの修業の思い出、今後への意気込みを聞いた。
銀行員志望から料理人の道へ、老舗ホテルでフランス料理の基礎を叩き込まれた
「子どものころは、美食家の両親と地元の浅草などで“おいしいもの巡り”をすることが日常で、大学生になると、友人を誘って食べ歩きをするようになりました」(古屋シェフ・以下同)
幼少期から、グルメな日々を送っていた古屋シェフ。自分で作るよりは、食べることが好きで「料理人を仕事にすることなど頭の片隅にもなかった」という。安定志向で大学は経済学部に進み、卒業後に目指していたのは銀行員。就職活動では、予定どおり金融関係ばかりを受けるも、軒並み不採用に。そこで、3年生の時点でまさかの方向転換をし、大学卒業後は料理人を目指し、調理師学校に進むことを決心した。
「安定しているからと銀行員になるより、“自分の好きなことを仕事に生かせる人生を送りたい”と思うようになり、大幅にシフトしました。料理人になれば働きながら技術も磨けるし、おいしい料理を生み出しながら、ずっと食の勉強を続けていけることが魅力的でした。初めは、“なんで大学まで出てから調理師学校に?”とうろたえていた両親も、私の揺るぎない決意を聞いて、応援してくれるようになりました」
大学卒業後、調理師学校の社会人クラスで和・洋・中・製菓の基礎を1年間、学んだ。さらに1年、専門コースに進む道もあったが、年齢的にもハンディを負っている。
「そこで、歴史があり、古典的なフランス料理の技術を一から身につけることができる東京の老舗ホテル『学士会館』の就職面接を受けることにしました。フレンチレストランの料理以外にも、宴会や結婚式、ビュッフェなどでの、大皿にきれいに盛りつける料理も経験してみたかったんです」
無事に採用となり、「学士会館」で修業生活をスタート。そこから実践的な学びが始まった。
「幸い、“女性だから”などという差別は面接のときから一切なく、働き始めてからも、パワハラやセクハラは皆無。環境には恵まれていました。面接前は、華やかな外資系ホテルにも憧れましたが、王道フレンチを学びたくなって、何より、基礎がきっちり身につく仕事場が自分のためになる、と切り替えて正解でした。和洋中すべてそろった施設なので、さまざまなジャンルの料理に関する研修をさせていただき、視野が広がり、吸収することが多い職場でした」
働き始めてから4年目のころ、料理長から「こんなコンクールがあるから出てみたら」とすすめられ、軽い気持ちでエントリーすることにしたのが、30歳以下の若手料理人の世界一を決定する国際料理コンクール『サンペレグリノ ヤングシェフ』。料理写真を送ると書類審査を通過、日本で10人の世界大会出場候補に入り、代官山の料理学校「コルドンブルー」で行われる実技審査へと進んだ。
「仕事が終わってから毎晩のように練習。店の食材を使わせてもらい、料理長の指導のもと、試作を繰り返しました。職場全体の強力な応援体制のおかげで、本番も乗り切れました」
その結果、審査員のうちの1人、東京・青山にある人気レストラン「NARISAWA」の成澤由浩シェフに伸びしろを買われて、日本代表に選抜される。プロになってまだ4年目、26歳のときだった。
朝4時台から練習し夜まで仕事。コンクール後はオーストラリアで研さんを積む
本戦は2か月後に、イタリアのミラノで開催される。6時間で10皿分を作り、20か国から選ばれた俊英たちと競う。
「朝4時半から、営業前のNARISAWAの厨房をお借りして試作を繰り返し、成澤シェフに試食をお願いし、改善点を指摘していただきました。そのあと職場に行き、夜まで通常どおりの仕事をこなし、毎日のように試作を続けました。
時間内に10皿を完成させるのは至難の業。だから本番では6時間で完成させるところを、1時間短く設定し、分刻みでスケジュールを組んで、5時間で作る練習をしていました。成澤シェフからは、“日本人としてのアイデンティティをひと皿に表現するように”と教わりました。そこで四季を意識したメニューを考え、食材や器も和にこだわり、生産者とのつながりも学びました。今の料理観は、そのときに培われたものです」
「イノベーティブ“里山キュイジーヌ”」(革新的里山料理)をコンセプトに掲げる「NARISAWA」は、フランスのグルメガイド・ミシュランで2つ星を長年キープ。成澤シェフは、日本の豊かな食文化と先人たちの知恵を自身のフィルターを通して表現する独自の料理を提供し、’10年にスペインで開催された世界最高峰の料理学会にて「世界で最も影響力あるシェフ」に選ばれるなど、海外での評価も高い。そんな成澤イズムを反映した品々が、コンクールでは求められた。
「本番がいちばん、うまくいったと思います。丸ごと一羽使う鴨の火入れがもっとも難題でしたが、成澤シェフにその技術を叩き込んでいただいたことで、今では、鴨料理が私のスペシャリテとなりました」
惜しくも賞は得られなかったが、後悔はなかったという。そんな稀有な経験ができたこともあり、「海外に行きたい」という思いが強くなった。30歳を機に、ワーキングホリデービザでオーストラリアのレストランに修業に向かう。
「フランスにもいつか行きたいけれど、英語も学びたかったので、修業先は成澤シェフに紹介していただき、オーストラリア・メルボルン郊外にある『ブレイ(Brae)』に決めました。都会から離れた不便な街に、ブレイの料理を求めて世界中から大勢のゲストが訪れることに驚きました」
オーストラリアを代表するシェフ、ダン・ハンター氏率いる「ブレイ」は、ビクトリア州ビレグッラの丘の中腹に位置する。メルボルンや国際空港から車で1時間半。国内外から料理を目当てに多くの人が訪れる。レストラン、ゲスト・スイート、有機農場を備え、自然に浸り、大地の恵みを味わうことができるレストランだ。オーガニックの野菜、柑橘類、ナッツ、オリーブ、蜂蜜、小麦などを栽培し、ファーム・トゥ・テーブル(自家栽培の食材をその場で料理にして出す)型のユニークなオーストラリア料理が提供される。
「一面に畑が広がる風景も、都会では経験できない、すばらしい環境です。野菜などは自分たちで収穫しますし、海にも近い。その日に採った食材をそのまま当日の料理に生かしたりもします。シェフが食材の視察に行く際にはスタッフを連れていってくれることもあり、自分の目で見て、実際に食べるなかで、素材の見極め方を学べたことがいちばんの収穫でしたね」
刺激的な日々を過ごしていたが、折しもコロナ禍で、オーストラリアは完全にロックダウンされた。海外のほかの土地のレストランでも仕事をしたいという夢は叶(かな)わず、志半ばで無念の帰国となった。しかし、日本では「クラージュ」のオーナーであり、飲食業界で多数の店を成功に導いてきた相澤ジーノ氏が待っていた。
「以前、ホテル『マンダリン オリエンタル東京』で開催されたタイの人気イノベーティブレストラン『ガガン』とのコラボディナーに行きたいと熱望していたのですが、あまりの人気に抽選となり、落選してしまったんです。諦めきれず、直接『ガガン』のシェフにメールをして席を用意していただけたことがありました。その際に同席したジーノさんが、ありがたいことにその貪欲さを買ってくれて、“クラージュがオープンするときのスタッフに”と声をかけてくださり、今に至ります。
とにかく今は、みなさまの期待に応えたいという思いで奮闘しています。食べに来てくださった方々の笑顔を思い浮かべて作っていますが、お客様にとって『おいしい』はさまざま。ゲストがいちばん食べたいと思う料理を探り、ひとりひとりに合わせたお料理を作れるよう努めて参ります」
フランス料理の名店で食事をする際に、女性シェフがあいさつをしにテーブルを回る姿は、ほぼ見たことがない。それがありふれた光景になるまでには、労働環境を踏まえても、まだまだ時間がかかりそうに思う。その先鞭をつけてくれた古屋シェフが、楽しそうに厨房で料理を作る姿が頼もしい。
「クラージュ」古屋聖良シェフの思い出が詰まった“スペシャリテ”2選
◎クラージュサンド
鴨のローストに、季節によりオーストラリアの黒トリュフをのせ、オーストラリア産小麦を使った自家製パンにはさんだサンドイッチをお店の名刺代わりに。コンクールやオーストラリアでの修業の思い出を詰め込んだスペシャリテ。茨城県産の鴨は、赤身もしっかりして旨味も強く、トリュフの香り豊かなアミューズ。
◎アナゴとごぼうのリゾット
脂が乗って肉厚な気仙沼産の穴子をリゾットにのせオニオンソースで味をつけ、広島の梶谷農園のエディブルフラワーで華やかに仕上げた。リゾットの中にごろっと入っているごぼうは、上にもフリット仕立てでのせられ、異なる食感が楽しい。鮨飯に発想を得てバルサミコ酢を効かせたリゾットは、さっぱりした口当たり。
(取材・文/Miki D’Angelo Yamashita)
Courage(クラージュ)
住所:東京都港区麻布十番2-7-14 azabu275 1F
TEL:03-6809-5533
営業時間:17:30〜23:00
定休日:日曜、祝日、不定休
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備考:9品コース税込16500円、6品コース税込11000円(要予約)