第3弾では、場面緘黙症(ばめんかもくしょう)を克服後も周囲になじむことができず、不登校になった中学生時代を振り返ります。
(アニメ『美少女戦士セーラームーン』の主人公・)月野うさぎのもとに黒猫のルナが来たように、中学生になったら私にも幸運が舞い降りて世界は変わる。セーラームーン世代の私は、小学校の卒業が待ち遠しくて、いつもそんなことを考えていた。
小学生のときに患っていた場面緘黙症は克服して、その後は学校で話せるようになったし、今度は中学校や高校で友達を作れば、幼少期から抱えていた潜在的な寂しさも消えるはずだ。
(幼稚園時代に受けた体罰の経験や”見捨てられるのでは”と不安を抱き始めたきっかけ、そして、小学校で場面緘黙症に悩まされていたエピソードについては、以前のコラムで詳しく描写しています→記事:【10代を生き抜いて、いま#1】場面緘黙症の私を追い詰めたのは、あの日、先生が振りかざした「正しさ」/【10代を生き抜いて、いま#2】場面緘黙症の私が、話せなくなる前の記憶──心にあり続ける“寂しさ”の理由は)
小学生時代は男女どちらからもいじめを受けたが、暴力をふるってきたのは男子だったので、小学6年生のときに中高一貫の女子校の受験を決意、合格したときは入学が楽しみだった。
だから思ってもいなかったのだ。それから半年もたたないうちに、不登校になるなんて。
言語能力は正常であり、家では問題なく普通に話すことができるのに、特定の状況(例えば、幼稚園や学校など)においては声を出して話せないことが1か月以上続く疾患で、選択制緘黙症ともいう。話す必要があると感じても話すことができないほか、身体が思うように動かせず、固まってしまうことも。500人に1人ほどの割合で発症するといわれており、5〜10年以内に改善することも少なくないが、慢性化して成人になっても症状が続く場合もある。
不登校の始まりは、空気の読めなかった私の行動
会話にはリズムがある。
自分が話すとき、相手の話を聞くとき、会話を中断するとき……小学校という小さな社会の中では、大人になってから必要な会話のリズムの体得も、恐らく周囲からすでに求められていたのではないだろうか。
12歳の私にそのスキルはなかった。場面緘黙症だった小学生時代、学校でクラスメイトと話した経験がゼロだからである。
そのため中学校に入った私は、いわゆる“空気の読めない行動”ばかりとっていた。例えば、“自分の発言で相手の話をさえぎる”、“授業が始まっても先生が注意するまで自分の話をやめようとしない”など、自分がしでかしたことの記憶はいまも残っている。
中学生になったばかりの私は、すぐにどのグループにも入れてもらえなくなり、クラスメイトのほとんどが私を無視し始めた。
大人になった私にはよくわかる。彼女たちはまだ中学生だったし、私の空気の読めなさにうんざりしていたのだろう。自分の身に置き換えてみると、友人が自分の話ばかりして周囲の様子をまったくくみ取ろうとしていなかったら、絶対に嫌だ。
当時の私もわかってはいたはずなのに、そこで頭をもたげたのが“潜在意識としての寂しさ”だった。
教室にひとりでいるのに耐えられなくなり「小、中(学校)で無理だったんだから、私はダメな人間なんだ」と思って、ある日、学校へ行かないと決めた。登校しない私に母親や祖父が驚いて手を引っ張ってもベッドから出ようとはせず、10代で社会から目を背けた。
受験生だったころから「可愛い」と感じていた学校の制服は、その後1年半ものあいだ、クローゼットにしまわれたままになる。
根気強く、というと語弊があるかもしれないが、母はその間ずっと諦めずに、私が学校に行くためにはどうすればいいのかを考えていた。
母の気に入っていた『青春時代』(森田公一とトップギャラン)という曲に、こんな歌詞がある。
《青春時代が夢なんてあとからほのぼの思うもの 青春時代の真ん中は胸に刺(とげ)さすことばかり》
母にとっても中高時代はそういうものだったようで、「一生の友達は高校でできるから、今は頑張って」と励まされたが、学校を休む日が続けば続くほど、どんどん行きたくなくなった。
母は私をカウンセリングルームに連れて行き、そこで私はいくつかの心理療法を施され、話をたくさん聞いてもらった。母は私の学校の担任教師とも会い続け、どうすればよいのか話し合っていたそうだ。
一方で私は、母たちとは正反対のことを考えていた。「小学校のころからこうすればよかった」と。
小学校だけじゃない。先生から体罰を受け続けた幼稚園生のときに、ずっと休んでいれば傷つかずにすんだかもしれない。
“学校へ行く”。
苦しい道を踏みしめていた私は、表立ってそれを拒否できた自分を誇った。もう、いじめや仲間はずれにされることを怖がらなくていい。
卒業したら働くか、勉強して大検(大学入学資格検定)を受けようと思ったが、インターネットでいろいろ調べるうち、そのどちらも成し遂げる気力や根気が自分にないと自覚した。ちなみにその後の2004年、大検は廃止され高等学校卒業程度認定試験に移行している。
そして、学校を休んでも消えないのが、潜在的な寂しさだった。
友達が欲しかった。作りたかった。
だけどできなかった。作れなかった。
学校へ行かない選択をして安心したのに、私の自信はゼロに近くなった。勉強、人間関係、先生からの評価。「私ってすごいな」と思えるものが全部消えたのだ。
不登校2年目で訪れた、高校進学へのラストチャンス
不登校になったのは中学1年の2学期からで、夏以降の春夏秋冬はあっという間に終わり、学校へ行けなくなってから2度目の夏が来た。そしてその夏も過ぎ去り、肌寒い季節になったころ、担任教師が母にこんな提案をしたという。
「うちは中高一貫校ですので特例を設けます。中学2年の3学期から卒業するまでの1年3か月のうち、3分の2以上出席したら、ほかの生徒たちがエスカレーター式で進む高校の受験を可能にします」
これは私だけに提案された内容ではなかった。同学年で不登校の生徒は私を含め3人いたので、彼女たちの親もそれぞれ同じようなことを担任教師から言われただろう。
高校に進学するためのラストチャンスだった。
「理央さんのクラスには、仲良くしてくれるような優しい生徒を2人入れます。だから安心して登校してください」
“優しい”と言うより、“正義感の強い”生徒と言ったほうが正しいだろう。とはいえ、いじめられて不登校になった「かわいそうな子」を救ってあげたいと思う10代の女子は珍しい。
教師からの言葉を聞いて「行こう」と固く決意したわけではなかったが、その後、“再び制服を着てバスや電車に揺られたのはなぜか”と聞かれると、いまだに明確な答えが出てこず「将来が不安だったから」としか言えない。
覚えているのは正月に家族でお参りに行ったあとの、幼い妹の言葉だ。年が離れているのでまだ4歳だったと思う。
「りお姉ちゃんが学校に行けますようにってお祈りしてん。えらい?」
幼さゆえの残酷な言葉だった。
祖父、父、母、私、妹2人。そんな家族の中でいちばん年下の妹からもそんなふうに願われていたのは、きっと祖父や両親の気持ちを無意識のうちにくみ取ったからに違いない。
「いやになったらもう行かない」
私は母にそう言って1年半ぶりに登校した。そして条件を満たして高校に進んだ。
私以外の不登校の生徒たちは、学校に行けないまま中学校を卒業したという。
彼女たちはどうしているだろうかと、今も考えている。もしかすると私が選択しなかった人生を生きているのかもしれない。人の人生は個々で異なるから、そんなはずはないのに。
3人で会う機会があれば何かが変わっていたのかもしれないが、当時の私たちは自分のことで精いっぱいだったし、大人たちもそんな提案はしなかった。
「学校に行く」と決めたことは、私の人生で最大のターニングポイントになった。
初めて感じた愛校心と、悩んでいる人に伝えたいこと
進んだ高校で母の言うような一生の友達には出会わず、中学校と同じようにいじめや仲間はずれは日常的に起きていて、また不登校になりたいと何度も思ったし、進級できるかギリギリの出席日数のまま学校に通い続けていた。
悪意に満ちた中高時代を脱するには、ほかのところへ行くしかない。エスカレーター制で中高と同じ系列の大学に進むのは絶対に嫌だった。小中高時代をすべて葬りたい私は、AO入試で隣の都道府県にある女子大になんとか合格した。
明治時代に創立、戦後は関西最初の新制女子大学になった歴史のある学校で、西洋建築の美しいキャンパスやいじめのない環境、穏やかで優しい友人たちとも巡り合い、そのすべてによって私は「愛校心ってこれなんや」と気づいた。
時を経たいまも、私にとっての学校はその大学だけであり、幼稚園から高校までの話はできる限り避けている。
愛校心が芽ばえた大学時代と、卒業後に続く新卒で就職した会社での楽しい毎日は、私に潜在的な寂しさを忘れさせて20代前半まで続く。
その後、ショッキングな出来事をきっかけに再び地べたをはうような思いをして生きることになるのだが、10代から20代前半までのあいだは、生まれて初めて自分の人生を満喫できた。
当時の苦しみは忘れているだけで消えたわけではないので、きっかけがあれば私の内面にひょこっと顔を出して、どんどん広がっていく。苦しみ、つらさ、痛み、寂しさ。そのすべてを受け入れて愛せたらいいのにと思うのだが、それは自分の過去を受け入れる過程を経なければ成しえない。
今もできないことなので、私は10代の痛みを手で覆い隠すようにして生きている。
以前の記事にも書いたので繰り返しになるが、過酷な経験は人を弱くする。
大人になって思うのは、過去を受け入れられなくても、過去のせいで弱い自分ができあがってしまっても、それを否定しなくてもいいということだ。
10代を乗り越えて、いま。
「強くならなきゃ」と感じている人がいれば声をかけたい。
弱いままでもいいよ。
弱いままでも幸せになれるよ。
自分の経験から何かが伝えられるとしたら、この言葉がもっとも適しているだろう。
(文/若林理央)