人気の書道家、武田双雲(そううん)さん。2015年にネットの診断テストで、自身が発達障害のひとつである『ADHD』(注意欠陥・多動性障害)であることを自覚しました。その後、病院でも同様の診断を受けたそうです。どんなきっかけでADHDだと気がついたのか、症状との向き合い方について、YouTube『たかまつななチャンネル』でお話を伺いました。
ADHD(注意欠如・多動症)は、「不注意」と「多動・衝動性」を主な特徴とする発達障害の概念のひとつ。ADHDの有病率は報告によって差があるが、学齢期の小児の3~7%程度と考えられている。ADHDを持つ小児は家庭・学校生活でさまざまな困難をきたすため、環境や行動への介入や薬物療法が試みられている。(出典:厚生労働省 生活習慣病予防のための健康情報サイト)
「気づいたらみんないない」はぐれてばかりの少年時代
──今日は武田双雲さんに、『ADHD』についてお伺いしたいと思っています。
武田さん:ADHDと自覚したときは、うれしかったんですよ。
──なんと、うれしかったんですね。
武田さん:なんかね、小さなころから、人に全然ついていけなかった。例えば、野球をしていても、先生から期待されてピッチャーを任されているのに、肝心なときになって「雲がきれいだ」なんて、空を眺めちゃう。
──野球中なのに(笑)。
武田さん:それでチームが負けるじゃないですか。めちゃくちゃ怒られるんだけど、なぜ自分が雲を見たのかもわからない。怒られている最中も、怒っている先生の目が気になるんですよ。「ああ、こうやって顔が赤くなるんだ。ここでヘモグロビンが増えているのかな」とか(笑)。要するに、一部が気になると全体が見えなくなってしまう、ということがあって。
気がつくと、周りからみんながいなくなっているんですよ。高校時代でも、友達と買い物をしている途中で僕が落ち葉に夢中になってしまい、いつの間にかみんながいない、とか。今でも夢に、その情景が出てきます。衝動的に動いてしまうし、いろんなミスをしでかすから、何に対しても自信がなくなってしまう。でも、それがADHDの特性だと言われたときに「これ、俺のせいじゃないんだ」って思って、めちゃくちゃ楽になりました。
──生きづらさを感じることは、よくありますか?
武田さん:生きづらさというよりも「みんなが何をやっているか、よくわからない」って感じなんですよ。僕、本や映画も最後まで行きつかなくて。
──途中で何かが気になってしまうということですか。
武田さん:そう。今話していても、目の前のこれ(感染対策用のパーティション)が気になって。なんで、ななさん、そのスカーフをしているんだろうとか。
──なるほど、目の前にある情報が常に自分の頭の中に入ってくるんですね。
抑えられぬ衝動性もアーティストとしては「正解」
──ADHDとわかったのは、いつですか。
武田さん:’15年にネットのチェックテストで自己診断してみて、“ADHDらしい”、ということがわかった。先日はじめて、病院でも診断を受けました。「間違いなくADHDだけど、薬はいらない」と言われて。
──チェックテストでは、どんな項目があてはまったんですか?
武田さん:落ち着きがないとか、衝動的に何かをやってしまうとか。あとは、人の話が聞けない。見境いなしにひたすら話せる。僕、講演会をするときも、何も考えずに一発勝負で話をしますよ。作品をつくるときも、その場でパパパーって書いて、次の瞬間にはもう全然違うことをやっているんです。
──締切があるような仕事はこなせるんですか?
武田さん:書道家として作品を書いたり、文章を書いたりすることは、すぐにできるので。「明日まで」と言われたら「明日までだね、はい」って、パッとやる。だから仕事として成り立つんです。ほかの仕事はできないですよ。アルバイトだってうまくいかなかったし。アーティストっていう職業があってよかったなって。
僕はADHDの中でも、たぶん“衝動性”が強いんですね。突然、変顔をするとか、スキップを始めるとか。突然ですよ。でも、アーティストという立場になったら、時には「それが正解」ってなるんです。だって、いきなり周囲も驚くような行動ができる人間だから、常識を超えたことや、世界初の挑戦ができるわけじゃないですか。
──まじめな場面でも突然、変なことをしてしまうんですか。
武田さん:いや、例えば『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出たときに、いきなり変顔とかはしなかったです。頭の中では「徹子さんの頭の形が、ウ冠(うかんむり)みたいに見えるな。うわあ、“ウかんむりだなー”って言いたいな」とか、いたずら心が常にあるんですけど、言うのは我慢して。でも、この衝動性がADHDの特性だってわかったから、最近の僕はもう、首輪のとれた犬のように楽になりました。
──自分がADHDだと知ることによって楽になる。ほかにもそういう人がいるんだ、と。
武田さん:あとは、自分の「取扱説明書」ができたんですよ。これまでは、自分の中で諦めていいところと、諦めてはダメなところの境目がわからなかった。頑張ればできる、って思うじゃないですか。
でも、人から「ものを失くすな」と言われても失くしてしまう。それは僕の努力が足りない、あるいは僕の性格が悪いからだと思っていた。でもADHDだと知ったことで、それは直せないものなんだ、と。それなら「僕はものを失くしてしまいます」と先に言ってしまったほうが、周りも楽だし。できないことは、ほかの人に頼めばいい。そういう考え方に変えたことで、秘書や僕の妻、友人も楽になったと思います。
──ADHDと知る前は、秘書の方や奥さまとうまくいかなかったこともあるんですか。
武田さん:めちゃくちゃありました。だって僕、新婚旅行で海外に行って、何回も行方不明になったんです。妻から「もう別れよう」って言われて。「すぐにいなくなる人と、これからやっていけない」と。バス旅行だったんですけど、集団旅行ができないから。
──もともと単独でフラッと行動してしまいがちなのに、その上、バス旅行を選んでしまった。
武田さん:そのときはADHDだってわからなかったからね。でも、妻は結婚して3年くらいたったころに、気がついたらしくて。そういえば昔、妻が分厚い本を読んでたんですよ。本に『ADHD』って書いてあって。僕は知らないから「それ何?」って聞いたら「いや、なんでもない」って言われたの(笑)。だから、妻は僕よりもずっと前に、僕の特性を知っていたんでしょうね。
「質問ばかりする子は天才」理解してくれた両親と先生
──子どものころはどうでしたか。ADHDの特性で、何か困ったことはありましたか。
武田さん:小学校3年生くらいまでは、ひたすら明るい子だったらしいです。突拍子もないアイデアを次々と出すので、人気者だったんですよ。でも4年生くらいから「あいつ、うざいよね」ってなって。6年生から高校3年生までは、どんどん友達が離れていきました。暗黒時代ですね。
──それはつらいですね。
武田さん:そうね。でも、そのおかげで、母ちゃんが送ってくれた、相対性理論についての本とかをむさぼり読んで。音楽の世界にもハマって。人間と接していなかったから、“ピュアなまま”宇宙に没頭できたのかもしれない。
──大学卒業後は、就職をされていますね。NTT東日本の営業でしたっけ?
武田さん:はい。法人営業をしていました。
──そのときは何か困ったことはありましたか?
武田さん:困ったのは僕というより、上司だと思いますね。営業先の社長を相手にしても、僕があまりにもフランクに接してしまうから。僕、誰の部屋であっても遠慮なしで入っていくんですよ。そもそも誰が偉い人なのか、よくわからなくて。
機嫌が悪い人に対しては、ものすごく敏感なんですけど、組織のヒエラルキーはよくわからない。それで誰に対してもフラットな態度で接していたら、意外とお客さん側の偉い人は可愛がってくれたんですよね。だけど直属の上司は「失礼じゃないか」とヒヤヒヤしたと思う。突然「この会議って、何の意味もないですよね」なんて言ってしまうから、めっちゃ怒られました。
──子どものころから会社員時代も含めて、周りの方がADHDの特性を理解してくれたことはありましたか。
武田さん:ないな……。理解されたという感覚は、両親に対してだけですね。両親は僕のことを、もう「天才」としか言わなかった。怒られるとか、将来のことを心配されるとか、一度もないですから。熊本弁でびっくりしたときに「ばっ」と言うんですが、僕が何をしても「ばっ! 天才ばい!」と言ってくれました。
あ! あと、思い出した。小学3年生のときの、眉間にほくろがある先生。僕はいつも授業中に「なんで?」ばかり言うから、よく怒られていたんです。その先生から突然、中庭に呼び出されて。僕、本名が大智(だいち)っていうんですけど「大智くん、あなたは質問ばっかりしてるね。すぐ手を挙げるでしょ」と言われて。ああ、また怒られるなと思って「すみません、ごめんなさい」と言ったら「天才だよ」って。「質問ばっかりする子は天才なのよ。あなた、すごい人になるわ」って言われた。いたね! 理解してくれる人。
プロジェクトの前に「自分の取扱説明書」を渡す
──書道家になってからは、生きやすくなったんですか。
武田さん:今思えばそうね。小学校、中学校、高校、大学、会社員と、ずーっと社会のレールに乗っていたんですよ。それはそれで、レールに乗ったからこそ生きてこられた部分もあって、感謝しなければいけないんですけど。でも独立すると、レール自体がなくなるじゃないですか。確かに飯が食えなくなる危険はあるけど、心の中は、もうね、とんでもないエネルギーが出続けているんです。
会社員時代は、「怒られるかも」と思ったら、すぐに“心の貝”を閉じるわけ。不穏な空気を感じたら、パッと心の中で「ごめんなさい」って。嫌われたり、変なふうに思われたりしたくない。その繰り返しの中で、ちょっとずつ自分を出すことを控えていくんです。でも会社をやめてからは、勢いだけがあるから、会う人会う人に「俺が世界を変えるんですよ」って言って。
会社員と違って、必ず行かなければならない場所がないので、起きたいときに起きて「何をしよっか」から始まる。その積み重ねで、今に至った感じです。今日はストリートで書こうとか、メールマガジンの配信をやってみようとか。そうしているうちに、生徒さんが集まってきてくれた。その様子をホームページに書いたら、読んで感動してくれた人が、また全国から集まってきて。
「じゃあ、みんなで面白いことをしよう。みんなで海に行って書こう」とか、「巨大な書をつくろう」とか、ゲームみたいに考えて。そんなことをしていたら、いつの間にかメディアに出るようになりました。
──今もADHDの治療は続けていらっしゃるんですか。
武田さん:いや、治療はしていないです。今、一般的に治療と呼ばれるものは薬の処方ですよね。先生に言われたのは、「薬を飲むかどうかは、本人が日常生活を送ることができるか、できないかで決まる」と。
──日常生活に支障があるか、というところがポイントなんですね。
武田さん:そう。例えば、ひとり暮らしで火事を起こすリスクがある人とか、不注意で交通事故に遭いやすい子どもとか、そういった個別の事情によって処方の有無が決まるんですよね。僕には一応、妻もいるし、秘書もいるので、治療はしない方向。この特性に合う仕事を選んでいます。
──ADHDとわかってから「こんなふうに対処したら楽になった」といったことはありますか。
武田さん:ものを失くしてしまうので、大事なものは自分で持たない。妻や秘書など、一緒にいる人に渡します。また、症状を抑えたり我慢したりするのではなく、ADHDの特性を生かせることしかしない。だから普段、メールのやりとりや事務的な仕事は秘書に任せています。あと、チームで取り組むプロジェクトの場合は、自分のマニュアルを最初にメンバーに渡しますね。
──最初に自分の特性を伝えるんですね。それをすると、仕事の進み方も違いますか?
武田さん:はい。今、チームで音楽をつくっているんですが、チームの人たちには事前に「僕は、決めたスケジュールを忘れてしまうことがある」って伝えてあります。そうすると、実際に忘れてしまったとしても、周りの人もあらかじめ想定していることなので、受け入れてくれることが多い。「今回が特別じゃないんだ。自分だけにやっているわけじゃない」とわかってもらえる。やはり、自分について周りの人に知ってもらうというのは、ADHDの人にとって大事なことだと思います。
落ちこぼれと天才は、意外と簡単に入れ替わる
──人によっては、ADHDと診断されたことをネガティブにとらえてしまう人もいると思いますが、どうすれば悲観的にならずにいられると思いますか?
武田さん:一般的には、まだまだ“発達障害=マイナス”ととらえる人も、多いのかもしれません。でも、ネガティブやポジティブって、環境によって意外と簡単に入れ替わるんですよ。凸凹の凹だと思っていたことが、アーティストという立場になると「天才」って言われる。
自分の特性に合わない環境に行けば、そりゃあ僕だってネガティブになりますよ。事務系の仕事をしていたら、いちばん落ちこぼれていた自信がある。毎日怒られてそのたびに反省するんだけど、どれだけ頑張ってもほかの人たちの平均値には行かない。
だから自分の性格を直すよりも、環境を選ぶことが大事だと思います。それを許してくれる友達や、「それがいい!」って言ってくれる友達、その特性を生かせる仕事や職場が見つかれば、もうネガティブにはなりにくい。
──これからADHDとどう向き合っていきたいですか?
武田さん:時代が変わってきているじゃないですか。大量生産の時代があって、デザインにこだわるものが出てきて、平準化も可能になった。そして今、創造性やクリエイティビティが大事だと言われているんだけど、創造とは、今までなかったものを生み出すこと。それってつまり、“いらんこと”をするしかないんですよ。
エラーをたくさん起こして「はあ?」とか「バカじゃねーの」って言われるようなことをひたすらやっている人が、たまに発明をする。そういう意味で、凸凹の激しい、発達障害と呼ばれる人たちにとっては、今の世の中はすごいチャンスが広がっていると思う。僕自身は世界に向かって、ADHDをフル活用していきます。
──最後に、ADHDで今苦しんでいる方にメッセージをお願いします。
武田さん:たぶん、自分の特性のことで周りの人が苦しんでいるのを見るのも、つらいと思うんですよね。ADHDの子どもが、自分のことでお母さんが悩んでいるのを見る、とか。でも、知識があることで助かることもあるから、みんなでADHDを学んでほしい。ADHDってこういうものなんだって。
ネコはニャーって鳴くとか、イヌはワンって鳴く、みたいなものだから、そういう生き物だということを知るだけで、きっと、そうとう楽になる。ADHDだということを受け入れて、いい意味で諦めて、これをどう生かすかを考えたほうがいいと思います。「こういうやり方だったら、このADHDの特性が役に立つんじゃないか」と、そういう場所を探すことを諦めないで。
ADHDを許さない、「ちゃんとしなさい」っていう、コミュニティーってあるんですよ。その場所にいて苦しかったら、速攻で逃げ切る。そして多動性を生かして、衝動的にいろんな場所に行っていれば、きっといつか、本当の仲間ができるんで。「それがいい!」って言ってくれる人に出会ったときの快感を、みんなに体験してほしいです。
──ADHDを患うと、日常生活でうまくいかないことが多いかもしれないですが、武田さんのようにポジティブにとらえることができ、仕事に活かせているケースもあります。このインタビューが何かのヒント、光となればと思います。本日はありがとうございました。
・厚生労働省 生活習慣病予防のための健康情報サイト:https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-04-003.html
(取材:たかまつなな/編集協力:塚田智恵美/監修:精神科医・森隆徳)
【PROFILE】
武田双雲(たけだ・そううん) ◎書道家。’75年、熊本県生まれ。東京理科大学理工学部卒業。3歳より書家である母・武田双葉に師事し、書の道を歩む。大学卒業後、NTT東日本に入社。約3年間の勤務をへて書道家として独立。音楽家、彫刻家などさまざまなアーティストとのコラボレーション、斬新な個展など、独自の創作活動で注目を集める。’13年には、文化庁より文化交流使の指名を受けて日本大使館主催の文化事業などに参加し、海外に向けて、日本文化の発信を続けている。
Twitter→@souuntakeda、公式ブログ『書の力』→http://ameblo.jp/souun/
たかまつなな ◎株式会社笑下村塾 代表取締役。’93年、神奈川県生まれ。時事YouTuberとして、政治や教育現場を中心に取材し、若者に社会問題を分かりやすく伝える。18歳選挙権をきっかけに、株式会社笑下村塾を設立し、出張授業「笑える!政治教育ショー」「笑って学ぶ SDGs」を全国の学校や企業、自治体に届ける。著書に『政治の絵本』(弘文堂)『お笑い芸人と学ぶ13歳からのSDGs』(くもん出版)がある。