今回のコトバは、ノーベル賞作家、ウィリアム・ゴールディングの小説『蠅の王』(1954年)のタイトル。僕は小説よりも先に、1990年版の映画を15年くらい前に観た。人間社会の縮図のような獣性と理性との関係を、寓話的に描いた作品として印象的だった。

 物語の舞台は近未来の世界大戦下。イギリスから疎開地へ向かう少年たちを乗せた飛行機が南太平洋で墜落する。助かった24人の少年たちは無人島に漂着、リーダーシップのある主人公ラルフを隊長に選び、文明的で秩序だった生活を送りながら救援を待つことに。ところが、闇と獣への恐怖が徐々に少年たちを狂わせていく。

 ラルフが隊長に選ばれたことに不満を抱くジャックは、狩猟隊を組織して別行動を始める。豚を狩って「肉」を食べられるようになった狩猟隊に、ラルフは仲間を引き抜かれていく。ジャックたちは狩りに耽ることで内なる獣性に目覚め、蛮族のような出で立ちへと変化。理性を失った彼らは仲間の一人を手にかけ、ラルフの最後の仲間も殺めてしまう。楽園の王となったジャックは邪魔者ラルフの殺害を命じ、森の中を追い回し始める……。

孤島に漂着した少年たちが集団狂気に陥る姿を、悪魔ベルゼブブ(蝿の王)に憑かれるさまになぞらえた作品。2017年に新訳版が出ていた。『蠅の王〔新訳版〕』(黒原敏行=訳/ハヤカワepi文庫)※画像をクリックするとAmazonの紹介ページに飛びます。

 子どもは残酷だとよく言われるが、本来、動物である人間を理性的な人間たらしめているのは、内なる獣性(非言語的な本能や感情)を言語化して自分自身を理解する力であって、教育を受けたり社会経験を積みながら「自分の言葉」を獲得して「大人」になっていくのではないか。

 だが、大人になっても獣性を昇華できない子どものような人間はたくさんいる。いじ(め)られたくないから、いじ(め)る側に回る人間がいるように、支配されたくないから支配することを選ぶような人間も。

 僕が知る、支配したがる人の武器は、本から拾ったような「名言」の類だ。言葉を巧みに使い、人の心に入り込むのに「名言」はもってこいのツールなのだろう。賢そうに見える「他人の言葉」をレンタルして知的であることを仮装し、相手との人間関係でマウントを取る。

 逆に、「支配されたい」(甘えたい、守ってもらいたいと言い換えてもいい)人間もたくさんいる。支配したがる人間は彼らの存在に敏感だ。だから「他人の言葉」をありがたがる人間(つまり「自分の言葉」を疎かにする人間)は容易に、他人に支配される人間に堕ちる、と僕は思っている。

 ちなみに、『蠅の王』でジャックの仲間たちに集団で殺害された少年は、心の中にある恐怖や獣性と向き合うことができる内省的な少年として描かれていた。恐怖や獣性を「寂しさ」と言い換えると、僕たちにも身近になる。支配したがる人や支配されたがる人を見て思うのは、いくつになっても寂しい人なんだなということ。寂しい人同士で群れたがっている。

 偉そうに書いたけれど、他の人から見たら僕も、寂しい人間に見えるかもしれない。第二次世界大戦に従軍し、ノルマンディー上陸作戦にも参加したゴールディングは、ある講演で次のように語ったという。

「人間は病んでいる。例外的人間が、ではない。誰彼ということなく皆、病んでいるのだ」

 それでも、万物に対して一つの個として存在したい僕は、支配されたくないし、したくもない人間でありたいと思っている。「蠅の王」というコトバを、それを思い出すための目印にしている。(DD)