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バラエティ

『アタック25』優勝者が明かす、 児玉清さんの思い出と番組に「今、伝えたいこと」

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『アタック25』の初代総合司会を務めた児玉清さん
目次
  • 「クイズ番組」の芸術的な完成形
  • 児玉清さんの人情味ある進行を振り返る
  • 『アタック25』に伝えたいメッセージ

 2021年6月24日の朝。クイズファンに激震が走りました。

「『パネルクイズ アタック25』(朝日放送・テレビ朝日系)、今秋で放送終了決定!」というニュースが飛び込んできたのです。

 これは、かつてテレビ界で一世を風靡した「一般視聴者参加型クイズ番組」のレギュラー放送が、ほぼ絶滅するということを意味します。

 あとは、フジテレビに『超逆境クイズバトル!! 99人の壁』がありますが、これはマニアックな知識を競う内容で、単純に一般的な雑学知識を競うクイズ番組ではありません。『アタック25』は、地上波におけるクイズ番組の世界においては、国宝級の存在であり、金字塔であり、そして、絶滅危惧種でもあったのです。

 かつて出場し、優勝。賞品としてパリ旅行まで行かせていただいた人間のひとりとしては痛恨。しかし、最近はタレント大会や再放送が多く、私自身『アタック25』を見ていなかったことも事実。

 以前はよく通っていて、近ごろ、足を運ばなくなっていたおいしいお店が「コロナで閉店する」と聞いたような、なんとも寂しい思いをしています。

「クイズ番組」の芸術的な完成形

 番組のスタートは1975年。イギリスでサッチャー首相が就任し、映画『ジョーズ』が封切られたと、そんな年でした。

 ルールは、言うまでもなく、開始2年前の'73年に発売されたボードゲーム『オセロ』をベースにしたもの。いわば、4人で25枚のパネルを取りあうオセロゲームです。

  オセロですから、最終的にいちばん多くのパネルを取った人が勝ち。角(かど)を取れた人が有利になったりします。クイズの正解数が多い解答者が必ずしも優勝するわけではなく、一発逆転があるルールは、番組のスタート時から、もはや「完成形」でした。特に、20枚のパネルが埋まったところに設定された「アタックチャンス」が、多くの逆転劇を演出してきたのはご存知の通り。

 加えて、問題をすべて暗記していたという初代総合司会者・児玉清さんの司会ぶりはまさに名人芸でした「大事な、大事な、アタックチャンス!」「なぜ、角を取らない!」「なにか、深いお考えがあってのことか……」などの名調子は、博多華丸さんのモノマネネタにもなりましたよね。

 さらに、クイズ問題の難易度が「難しすぎず、簡単すぎず」、絶妙なレベルだったことも高視聴率の要因だったと思います。

 私が『アタック25』に出演したのは、'83年のこと。

 当時は、『アップダウンクイズ』(TBS系)『クイズタイムショック』(テレビ朝日系)など視聴者参加型のクイズ番組が花盛りで、『アメリカ横断ウルトラクイズ』(日本テレビ系)の参加者数が、第7回にして1万人超えを記録したのもこの年でした。

 このころは、どこのクイズ番組も、予選の参加者全員に番組のロゴが入ったバッグや腕時計などの「お土産」をくれるのが普通でした。私がアタック予選を受けたときの記念品はすごく丈夫な手提げ袋で、ずいぶん愛用させていただいたものです。のちには、クイズ番組の予選の記念品は、どこもボールペンになりましたから、やはりバブルだったのでしょう。

 まだ電子メールなんてない時代です。予選を受けてからしばらくして、合格通知のハガキが届き、ある夜、スタッフから「〇月×日に大阪のスタジオで収録に参加できますか?」という確認電話があって、収録日が決定しました。

 当日は、大阪まで新幹線で向かい、タクシーでテレビ局へ。控え室での待ち時間はとても長かった記憶があります。

 スタジオ入りすると、そこには、観客と児玉清さんが! テレビの印象どおりの紳士で、スタッフと最後の打ち合わせをしておられました。

 その後、カメリハ(本番と同じ条件で撮影をしながら行うカメラ・リハーサルの略称)として、数問の早押しクイズ。スタジオの観客たち(ほとんどは大阪のご婦人方)は、この様子を見て、出場者4人のうち、誰の後ろの応援席に座るかを決めていたようです。トップ賞を獲った解答者の応援席に座った観客には、当時の番組スポンサー・東リ(現・東リ株式会社)から、カーペットのお土産が出たのです。

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