いちどは芸能界と決別も……
葛󠄀山はいちど引退を決意、半年ほど東京を離れたことがある。23歳のころだった。
もともと地元・三重県の工業高校に通っていた葛󠄀山。父親が営む水道工事業を継ぐつもりで、卒業後は名古屋の専門高校に進むことも決まっていた。それが高校3年の秋、思いがけずジュノン・スーパーボーイ・コンテストでグランプリを受賞して芸能界へ。
ドラマ『ヴァンサンカン・結婚』でデビュー後、『放課後』『いちご白書』『嫁の出る幕』『私の運命』などに立て続けに出演した。
「上京して演技のレッスンに通わせていただいて、テレビの仕事もいただきました。右も左もわからないなりに一生懸命やってはみたものの、いまひとつ欲がないというか “こうなりたい” “ああなりたい”という夢や目標を持てずにいました。ただセリフを覚えて現場に行っていように思います。
葛󠄀山信吾として18年間、三重県で生きて育ってきた自分自身が、どんどん削り取られていくような感覚でした。
そんななかでも事務所の方々は一生懸命に仕事を取ってきてくださっていたのですが、TBSのドラマ『私の運命』(1994〜1995)の撮影を終えて契約満了とともに、引退を決意して実家に帰りました」
だが、芸能界は葛󠄀山を放っておかなかった。
「僕は歌も歌っていたんですが、同じレコード会社に所属していた浅倉大介さんからお誘いがあったんです」
西川貴教のパワーに圧倒された!
浅倉大介はaccessとしての活動をいったん休止し、音楽プロデューサーとして再スタートを切ろうとしていた時期。ソロアルバムを制作するため、ボーカリストを探していた。
「1曲だけですが歌わせていただくことになりました。レコーディングのために三重から東京に通う生活でしたが、いろいろな経験をさせていただきました」
1995年6月にシングル曲『RAINY HEART 〜どしゃ降りの想い出の中』を《浅倉大介expd.葛󠄀山信吾》名義でリリース。7月には満員の日本武道館のステージにも立った。
「TM NETWORKの木根尚登さんがスペシャルゲストで、浅倉さんファミリーがみんな集まったコンサートで『RAINY HEART』を1曲。ものすごく気持ちよかったです。“もっと歌いたい”と思ったぐらいです(笑)。バラードだったので、暗い照明の中で客席のペンライトの光が蛍のようにウワーッと反射する光景を今でも覚えていますね」
ちなみにこのコンサートには西川貴教も参加。葛󠄀山と同じように《浅倉大介 expd.西川貴教》名義でシングル『BLACK OR WHITE?』を発表していて、西川のプロジェクトはT.M.Revolutionに発展していく。そこにジェラシーはなかったのだろうか。
「全然なかったですね。西川さんの歌を聴いたときに、もう “これはかなわない”という差を感じたものですから。一緒にいくつか音楽番組の収録にも参加して西川さんとも交流があったんですが、本当に明るくて楽しい人でした。とにかく素晴らしい歌唱力とキャラクターですよね。僕は番組に出てもそんなに流暢(りゅうちょう)にしゃべれるタイプではないので、西川さんのスター性とパワーを身近に感じて圧倒されました」
葛󠄀山もソロシンガーとして1995年10月に『いけないジェラシー感じて』で再デビュー。その後も2人組ユニットの「Bricks」の活動を経て、音楽は「楽しめる場所」として大切にしている。