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社会

設置15年を迎えた「赤ちゃんポスト」と向き合い続けた女性記者、取材を重ねるたび大きくなった“疑問”と“葛藤”

SNSでの感想
森本修代さん。熊本市街のアーケードにて撮影。どんな質問にも丁寧に答えてくれようとする姿勢から、普段の取材にも真摯(しんし)に向き合う姿が伝わってきた
目次
  • 内勤から記者に復帰し、赤ちゃんポストを追い始めると──
  • 社内では賛否両論、読者や福祉関係者らは「よくぞ書いてくれた」

 熊本市にある慈恵病院が「こうのとりのゆりかご」、いわゆる“赤ちゃんポスト”を設置したのは2007年。もともと年間1700人以上が生まれる産婦人科主体のこの病院が、赤ちゃんポストの設置に踏み切ったのは、2005年に熊本県荒尾市で起こった赤ちゃん遺棄事件が発端だった。親が養育できない子どもを匿名で託せる赤ちゃんポストには、賛否両論あったものの、「子どもの命を救うのが最重要」として、当時の市長が設置を許可したのである。

 あれから15年。預けられた子どもの、昨年度までの累計は161人。'08年は25人で最多、昨年度は2人と最少だった。

内勤から記者に復帰し、赤ちゃんポストを追い始めると──

 そんな赤ちゃんポストを2015年から取材し続けてきたのが、元熊本日日新聞記者の森本修代(もりもと・のぶよ)さんだ。当時、彼女は紙面を編集する部署にいた。新聞の見出しや紙面のレイアウトを作る内勤業務だ。入社以来、ずっと新聞記者として活動してきたが、2010年に双子を出産したことで仕事内容が変わった。

「双子ですし、もし預けることができても預かってくれた人が大変な思いをする。双子、実家が遠い、夫も同業という“三重苦”でしたから、育児と記者業を両立することは難しかった。見出しを考えたりするのも楽しかったからいいんですが、心のどこかで、“もう記者はできないのかな”と寂しさもありました」

 ところが'15年春、「子育て関連の問題」を担当することになり記者に復帰。そのつながりで赤ちゃんポストを取材することになった。休日にも取材を続け、'20年には自分の名前で『赤ちゃんポストの真実』(小学館刊)という書籍を出版。だが、'22年5月、彼女は新聞社を退社した。いったい彼女に何があったのだろう。

「29年間も仕事をしてきて、こんな結果になったのは、私に至らない点があったからだろうとは思います。でもこれ以上、会社の理不尽な言い分に屈することができなかった。周りで応援すると言ってくれていた人たちも、最終的には誰も声を上げなかった。それもショックでしたね。まあ、これが組織というものだろうし、組織に属する人間としては当然なのかもしれませんが」

 つまりは、赤ちゃんポストに対する彼女のスタンスが、会社のそれとは違うというところから、亀裂がどんどん大きくなり、ついに会社が彼女の行動や発言を制限するようになったのだ。新聞社に所属しながら個人として活動している記者は多い。社としての論調と記者の持論にずれが生じることもある。だが、それを封じたら、「言論の自由」をもっとも掲げなければいけない新聞社は成り立たない。森本さんが憤ったのも、その点だった。

 森本さんが取材を始めた当時、赤ちゃんポストは設置からすでに8年たっていたが、彼女は福祉関係の人たちを取材することで、大手メディアを始め、自分が所属している新聞社も礼賛していた赤ちゃんポストに疑問を投げかけた。別の角度から赤ちゃんポストを見つめたのだ。

「当初は私も、赤ちゃんポストには疑問を持っていませんでした。命が助かるのは絶対的にいいことだから。ただ、縁あって福祉関係者に話を聞くと、彼らは非常に疑問視していた。預けられたその後、施設で育った子どもたちは、自分の親がどんな人なのかを知りたがる。出自を知る権利は当然あるわけですから、それをどうとらえるか。また、預けた親たちも放置されてしまうわけですよね。産後うつになったりしないか。医療ケアは受けられるのか。そこには何の支援もない。

 困っている人がいるなら、子どもを預けただけでは解決しない問題を抱えているのではないか。病院関係者から聞くだけではわからない問題点が見えてきました。物事はいいことばかりではない。違う面から見て、自分の取材したことを書いていこうと思ったんです

「多角的な取材をしてこそ、新たな真実が見えてくるはずではないでしょうか」と森本さん
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