「平安時代から現代まで、『漫画』はどのように扱われ、進化してきたのか」をさかのぼってみようじゃないか、というこの企画。前回は、主に子ども向け漫画を描くトキワ荘のメンバーが大活躍したり、劇画や『ガロ』の登場によって青年が漫画を読むようになったり、東京五輪でスポ根ブームが出てきたり……と、とにかく大忙しだった1960年代の漫画についてご紹介した。(記事:漫画の超激動期=1960年代がアツい!「トキワ荘」「戯画」「ガロ系」など多彩なキーワードとともに振り返る)
今回は、そんな1960年代のレジェンドたちが依然として活躍するなかで、さらなる盛り上がりをみせる1970年代の漫画をご紹介。この時代は「少年漫画」の攻防のほか、なんといっても「少女漫画」が激アツだ。漫画のレベルを「文学」にまで高めた時代を見てみよう。
まず漫画の歴史において、1960、1970年代から現在にかけて大きな舞台となるのが「少年漫画誌」だ。こんなにデジタルが発達した今でも、出勤前の時間にコンビニなんかで、スーツ姿のおじさんが少年漫画誌を立ち読みしているのを見かける。
「外見はおとなしそうな七三分けに眼鏡だけど、この人はきっと脳内に歴代の少年漫画キャラが宿ってんだなぁ」と。ヒーロー物の影響で、「たぶん今、強盗が入ってきたら、速攻でタックル決めるんじゃねぇかな」と。「でもアレだぞ。立ち読みはダメだぞ」と。もうなんか50、60歳くらいのおじさんが急に可愛く見えてくる。
まぁ、さっそくの余談はこのくらいにして、前回の記事でお伝えしたとおり、1959年に『少年マガジン』と『少年サンデー』が創刊。1963年には『少年キング』が始まって、3大少年漫画誌となった。1960年代後半、そこに加わるのが『少年ジャンプ(1968年創刊、1969年から週刊化)』と『少年チャンピオン(1969年創刊、1970年から週刊化)』だ。
創刊号からノリにノッていた『少年チャンピオン』
『少年チャンピオン』の発行元・秋田書店は『漫画王(のちの『まんが王』)』や『プレイコミック』といった漫画雑誌をすでに発行していた。つまり、「漫画雑誌創刊時の最大の難関」である漫画家集めに関しては、めちゃめちゃ優位だった。
創刊当初のメンツが、もうオールスター感謝祭みたいなレベル。手塚治虫をはじめ、梶原一騎、さいとう・たかを、藤子不二雄、水島新司、といったトキワ荘系、劇画系の豪華布陣を抱えている。まさに“チャンピオン”ばかりが目次欄に名をそろえたわけで、順風満帆にスタートする。
難破しかけるも新人発掘で波に乗る『少年ジャンプ』
一方、『少年ジャンプ』の売りは「懸賞、目次、予告以外は全ページが漫画」というスタイルだった。今考えたら「いや、そんなん漫画雑誌だから当たり前だろうが」とツッコんじゃうが、当時は異例のこと。1962年時点で『少年サンデー』と『少年マガジン』の漫画の比率は約50%だったという。つまり『少年ジャンプ』のこのスタイルは、今の少年漫画のスタイルの先駆者。さまざまな漫画雑誌が群雄割拠するなか、ロゴマークどおり「海賊」として切り込んでいく。
しかし『少年チャンピオン』と違って、海に出てみたらいきなり大しけ。もう完全に難破しかけていた。というのも、コンセプトが「全ページ漫画」なのに、肝心の人気漫画家を確保できなかったのだ。
その理由はシンプルに「編集部員不足」である。発行元の集英社は同時期に『テレビ・コミックス』シリーズ、『セブンティーン』『りぼんコミック』といった雑誌を同時に刊行しており、当初『少年ジャンプ』の編集部員は2人だけだった。会社として「いや、ジャンプはそんなに頑張らなくていいやろ」と思っていたわけだ。
創刊スタッフの1人だった編集者・西村繁男はその著書「さらば、わが青春の『少年ジャンプ』」の中で当時のことを《ちばてつやはもちろんダメ。手塚治虫、横山光輝はスケジュールの空きなし。さいとう・たかをにも躱(かわ)されてしまい、水島新司はいったん読み切りをOKしたものの、結局断られた》と回想する。売れっ子漫画家たちは新興誌に関しては、けっこう冷めた反応だったのだ。
そこで、『少年ジャンプ』は大胆にも「新人漫画家を積極的に起用する」という作戦を打ち出す。もうシンプルに有名漫画家は諦めた。逆に「ほかの雑誌では見かけない新人漫画家の作品を読める」という案で勝負した。
ちなみに、『少年ジャンプ』はこのように創刊当初から新人漫画家を積極的に登用してきたが、現在も、アプリや増刊号を組み合わせながら新人漫画家の発掘・育成に力を入れまくっている。『鬼滅の刃』の作者・吾峠呼世晴や『呪術廻戦』の芥見下々もジャンプの生え抜きだ。