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人生100年時代。今や日本人のおよそ半分は50歳以上です。「NEOFIFTY」では、これから50代を迎える人にとって、その先にある老後が「終活の始まり」ではなく「新しい人生がもう一度始まる」と思えるように、素敵な生き方をしている人たちの言葉を紹介していきます。

芸能

堀部圭亮さん「24歳のとき萩本欽一さんに言われた言葉が、40歳で生瀬勝久さんの姿を見て腑に落ちました」

SNSでの感想
堀部圭亮さん 撮影/山田智絵
目次
  • 16歳、松田優作さんに憧れて
  • 24歳、萩本欽一さんに言われた言葉
  • 40歳、生瀬勝久さんの姿を見て
  • 今は、自分の家にいる時間が好き

 NHK朝ドラ『カムカムエヴリバディ』で、愛すべき偏屈な荒物屋『あかにし』の主人“ケチ兵衛”こと赤螺吉兵衛と、その息子・吉右衛門の一人二役を好演し話題を集めたことも記憶に新しい、俳優の堀部圭亮さん。1986年にお笑いコンビ「パワーズ」としてデビュー後、数々の人気バラエティで芸人として活躍していたが、2000年代以降は俳優に活躍の場を移し、現在は名バイプレイヤーとしてドラマに映画に舞台にと引っ張りだこだ。

 6月25日から念願だったというケラリーノ・サンドロヴィッチ作の舞台『室温~夜の音楽~』に出演する。現在56歳の堀部さんに、充実したNEOFIFTYライフを2回に渡って語っていただきます。後編では、芸人から俳優へのキャリアチェンジについて、恩師・萩本欽一さんの言葉、プライベートで大事にしている時間……などを伺いました。

※前編はこちら『堀部圭亮さんが語る、傑作ホラー・コメディの魅力「心の闇もはたから見れば笑いになる」

16歳、松田優作さんに憧れて

──’90年代までは芸人として活躍され、2000年代以降は俳優に転身されて、現在は名バイプレイヤーとしての地位を確立されている堀部さん。すごくうまくキャリアチェンジされてこられたという印象がありますが、ご自身はどのように選択をされてきたのですか?

松田優作さんの映画やドラマが好きで、もともと役者をやりたかったので、芸人になったのはたまたまというか……。最初は違うんだよな~と思いながらやっていましたね。16歳のときでした……

堀部圭亮さん 撮影/山田智絵

──では、芸人の道に進んだきっかけは何だったのですか?

「早く役者になりたかったので高校に行くつもりはなかったんですが、役者になる方法もわからなかったですし、親にも説得されて進学したんですね。それがまあ不良ばっかりいる学校で(笑)。面白くなかったし、ここにいてもしょうがないと思って中退しました。俳優になるためには環境を変えなければと考えて、松田優作さん=文学座だから、文学座を受けようと思ったら、受験資格が高卒以上なんですよね(笑)。

 16歳の高校中退という時点でアウトだから、“どうしよう……”と思っていたところ、入れる劇団が見つかったんですけど。1年分の入所金が必要ってことでまた困って。それで、同じ芸能界の人だから相談に乗ってくれるだろうと、中学の同級生のお父さんで、お笑いトリオ『ギャグ・メッセンジャーズ』の須間一露さんを訪ねたんですね。

 そうしたら、“劇団で研究生を1~2年やるより、紹介してやるからすぐ舞台に出ろ!”って言われて。それで、ストリップ劇場でコントをすることになって。でも、ぜんぜん違うんですよ(笑)。僕は松田優作さんのような役者の道に行きたいと思っているわけですから。ただ、だから辞めますっていうのは短絡的だし、一度はやろうと思って足を踏み入れたんだから、とにかく続けてみようと思って。

 でも、ストリップ劇場にこのままいたら、ずっとここだなと思ったので、いったん芸人を辞めました。1~2年はアルバイト生活をしていたんですけど、コントを一緒にやっていたヤツがテレビに出るようになったのを見て、“いかん、自分もやんなきゃ”と焦って、また芸人に戻って。20歳の頃に萩本欽一さんの番組のオーディションを受けて、その番組がスタートしても、“なんで俺、ここにいるんだろうな? 役者をやりたいのに”という思いはどこかにありましたね。

 だから、1990年代からウッチャンナンチャンさんやダウンタウンさんの番組などいろいろやらせてもらっていた中で、2000年くらいに一旦レギュラー番組が終わったとき、“今、ちょうどいい節目なんじゃないか”と思って。当時、勝俣(州和)くんと組んでいたコンビの『K2』も基本的には個々で活動していたし、映画の仕事がいくつか続けて入ってきたので、“今だ!”と決断して、芸人として所属していた事務所も辞めました

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