大の鉄道ファンであり、鉄道を中心としたフォトジャーナリストとして絶大な人気を誇る櫻井寛(さくらい・かん)さん。鉄道員に憧れて昭和鉄道学校に入学してから、日本大学芸術学部写真学科と出版社勤務をへて、フォトジャーナリストとして独立し活躍するまでの、“鉄道愛”にあふれた人生ヒストリーをお聞きしました!
幼稚園のころから鉄道に魅せられた。親元を離れ昭和鉄道高校で列車旅を満喫
──櫻井さんは、“撮り鉄”(鉄道趣味の中心として、鉄道車両などの撮影を楽しむ鉄道ファンのこと)以前に“乗り鉄”(列車に乗車することを愛好する鉄道ファンのこと)でもあるとのことですが、そもそも鉄道マニアになったきっかけはなんですか?
「乗るのがとにかく楽しいんです。物心がついたときから列車好きでした。お腹が痛くても列車に乗ると治ったりするほど。親の転勤で日本各地引っ越しをしていたのですが、そのとき電車に乗れるのが、うれしかったんですね。
最初に感動したのは、幼稚園のころに乗った『デゴイチ』(国鉄D51形蒸気機関車)ですかね。当時は3等まであって、2等はグリーン車だったんです。転勤のときは2等に乗せてもらえるのが、最高にうれしかった。あのころは、ひじかけまで全て白いカバーがかけられていたかと思いますが、座席に白いカバーがかかっているのが、幼心に高級感満載で。それから、駅弁。当時まだ、食生活が貧しかったから、駅弁が最高のごちそうだったんです。それと、列車に乗ると普段は食べられないアイスクリームを買ってもらえる。夢のような空間でした。そこがマニアになる原点ですね。
小学校2年のときに初めて1人旅をして、家の近くの駅から親戚の家の最寄り駅まで電車に乗ったのですが、あのときの高揚感はすごかったですよ。“いとこが迎えに来ている駅まで絶対に降りちゃだめだよ”って言われて、緊張して座席に座っていましたが、あの日からもう、"旅といえば1人旅"、ですよ。人とワイワイ行くと、印象が薄れてしまう。小学2年で、すでにその快楽をわかってしまったんです(笑)」
──好きが高じて鉄道を専門に勉強するための学校に進まれたそうですが、とてつもない鉄道愛ですね。楽しい学校生活だったのではないでしょうか。
「中学は長野だったのですが、進学するときに、父親の北海道転勤の話があり、“好きな高校を受験していいよ”と言われて、“じゃあ、東京の昭和鉄道高校に行く”と。とにかく、国鉄に入りたかったんです。
高校には親戚の家から通っていたので、親の目が届かない。北海道から九州まで自由自在に列車で旅をしていました。昭和鉄道高校では、実習として毎日仕事をするので、給料が出るんです。朝夕は学生班の腕章を巻いて、大塚駅でラッシュ時の尻押し、夕方は新宿駅で2時間の改札勤務。ですから、毎日500円くらい収入がありました。当時、北海道周遊券が5000円程度だったから、高校生にしてはリッチ。全国制覇できました。
学校では鉄道の授業があって、鉄道法規とか、運転取り扱い方などを学ぶのですが、僕は運輸課で、将来は車掌になるコースにいました。運転にはあまり興味がなかったんです。運転士だと東京から沼津まで200キロしか運転できないのですが、車掌は鹿児島まで行ける。列車に乗りたいがためにこのコースを選びましたね。タダで乗ってお給料がもらえる、こんなにうれしい仕事はない。
鉄道員になるための学校ですから、卒業したらほぼ全員、鉄道関係に就職するのですが、同級生はみんな、私鉄とメトロに入ったんですよ。僕は長野の両親のことを考えると、国鉄に入りたかったんです。国鉄に入るために、この学校に行かせてもらったので、私鉄に入ると親を見捨てることになるような気がして。
ところが、国鉄はその年採用がなかったんです。なぜなら、国鉄がなくなってJRになってしまったから。そこで、中学時代から写真を撮っていることを知っていた担任の先生に、“君は鉄道会社に入るより鉄道の写真を撮ったほうがいいんじゃないか”とアドバイスをいただき、日本大学芸術学部に入りました」